2017年3月10日金曜日

『たかが世界の終わり』グザビエ・ドラン


賛否両論ある作品で、からくちの批評もおおかった作品ときいています。そういう予備知識も、プロットもしらず、ただ、すごいキャスティングに、なかば戦々恐々としたきもちで、ようやく映画館にむかいました。
グザビエ・ドラン、ぼくはかなりでおくれてみはじめたので、みたことがあるのは、『わたしはロランス』と『マミー』のみです。今回の作品は、カナダでの撮影ではあるものの、前作までの「地元」系キャストではなく、全員フランスのスター級のひとたち、そして、映画の舞台がどこか、12年ぶりに帰省する主人公がどこからかえってくるのか(「おおげさにいうな、そんなとおいところじゃないし」というセリフが何回かありますが)も、ぼくが注意散漫だったということでないかぎり、すくなくとも、はっきりとこころにのこるようにはしめされていません。
この映画をみて、たくさんのことをおもったのですが、いちばんつよく印象にのこったのは、前作、前々作以上に特徴のあるカメラワークでした。撮影監督は、ずっとドラン作品でカメラをまわしてきたアンドレ・テュルパン。前作の『マミー』でも、インスタグラムを彷彿とさせるような正方形の画面が印象的でした。
カメラワークといっても、なにか技術的なことをいいたいわけでもないし、演出より撮影がかっていた、ということでもなく、これほど、つまりぼくでも気づくような独特のカメラワークが、監督の演出をはなれてひとりあるきしてしまうのではなく、むしろ、演出との濃密な共犯関係のようなものをうみだしていること、その成功ぐあいに、だいぶちがいますが、ウォン・カーウァイの一連の作品とクリストファー・ドイルの関係のようなものを感じたりもしました(そしておそらく、おなじ理由で、このようなカメラワークはあざとい、という批評もあるのだとおもいます)。
家族の映画です。34歳の主人公、都会で、劇作家として成功しているルイが、12年ぶりに故郷の家族をおとずれる。母親、としのはなれた兄、妹、そして、かれにとっては初対面の兄の妻。映画の設定は、いまかいたようにひさしぶりに家族と再会する青年なのですが、そこから、はなしはほとんどまえにすすみません。会話がつづかず、つづいていても、説明がないというか、必要とおもわれていないというか、会話の内容からはなしの骨格がみえてくるような通常の映画の話法は、そうかなとおもうところでうらぎられ、にもかかわらず終始だれかがしゃべっているこの映画は、結局だれもだれともまともにしゃべっていない、しゃべろうとしても頓挫する、ことばが、つぎつぎとどんどんよこすべりしていって、意味とむすびつかない(これをもっとも象徴的に体現しているのが、マリオン・コティヤール演じる兄の妻、名演です)。
そのいっぽうで、さきにもかいたように、この映画では、クローズアップが多様されます。被写界深度をさげて、カメラからちがう距離に位置する人物へのフォーカスが、セリフにあわせて移動する、といった手法も多用され、これは、たしかにいやなひとにはいやなのかもしれないけれど、ぼくはそれをみながら、「クローズアップ」とはなんぞや、という思考に、映画をみながらもっていかれそうになりました。
「感情の強調」「内心にせまる」などということばが一般的な効果としていわれそうなことですが、クローズアップした対象をみる視点とは、いったいだれの視点か、ということが、急に疑問としてふくらんでしまいました。ぼくたちは、実生活では、親密な肉親や恋人などをのぞけば、「クローズアップ」に匹敵する距離まであいてにちかづくことはない。おおくのばあい、最低でもおおよそ1メートルとか、そのぐらいの距離が、自分の目とあいてのかおのあいだにはあるはずで、クローズアップしたかおだけではなく、そのぐらいの距離でとらえられるあいてのたたずまい(上半身ぐらいでしょうか)全体で、あいての感情やおもいをとらえることになれているはずです。かおにちかづけば、内心にせまれるのか、これはだからかならずしもそうでもないようにおもうのです。
かといって、さきにかいたように、この映画のなかでは、ことばは、映画がえがくつもりであるかのような(もしかしたしたらふりをしている)家族の関係に、きちんとしたこたえをあたえてくれませんから、ぼくたちは、カメラにみちびかれるままに、フォーカスがあった登場人物たちの表情に目をこらします。かれらは概して表情ゆたかなのですが、そこでぼくたちは、人物たちの眼前から眼前へととびかう、すがたのみえない妖精のようなたちばにおかれます。ほら、いまこのひとはこんな顔をしているよ、とその妖精=カメラはおしえてくれるのだけれど(これを「神の視点」というのでしょうか)、ぼくたちにはたいしたものがみえてこない。クローズアップは、むしろ、それがなにかわからないということを強調しているかのようにみえるのです。
そうやってみているうちに、なんだかぼくたちは、とても親密な、それゆえに事情がよくわからない、この家族の、修復しがたい断絶の現場にまよいこんでしまった、当事者でも非当事者でもないような、いごこちのわるいような、それでいて特権的であるかのようなきもちで映画にひきこまれていきます。そして、なんだかんだいって予定調和をのぞむぼくたちは、その方向へのいとぐちをなかば本能的にさがそうとするのですが、妖精のごとき浮遊もむなしく、ぼくたちのこころみは、主人公ルイの、帰省して家族にある告白(自分はもうすぐ死ぬ)をするのだという所期の目的と同様に、頓挫してしまいます。そしてそこにほうりだされたまま、この映画はおわってしまう。
この映画には、ほとんどこの5人の家族しかでてこず、クローズアップだらけの、やたら「ちかい」映画ですが、配役に、スター級の俳優をそろえたのは、ただ映画の豪華なものにするためだけでないことに、みながら納得しました。ナタリ・バイ、バンサン・カッセル、レア・セドゥ、マリオン・コティヤール、そして主役のガスパル・ユリエル、全員の演技が、これ以上のものはないのではないかというほどすばらしいものでした。これほど脈絡がよくわからない、なぜここでこのひとがなきだすのか、気づまりになるのか、なんでこいつはこんなイケズばっかりいうのか、といったことの説明もないのに、ぼくたちはなぜだかいちいちかれらのクローズアップの表情に、動揺させられる。なにかがみえてくるわけではなく、なにかよくわからないことが強調されているだけなのに、そのわからないなにかにこころをうごかされてしまう演出と演技。これは、このレベルの役者陣でなければ不可能だったのではないかとおもいます。
家族とは、血縁的に圧倒的他人である異性のペアの、そのそれぞれに一親等でつながっているこどもという、ぼくにいわせれば極端に異質な関係をもつメンバーによって構成されている、にもかかわらず、「家族はなかよく」というモラルが、すくなくともぼくがしっている社会では絶対視され、家族の断絶は、即「不幸」にむすびつく。家族があいしあうのはもちろんいいことだとぼくもおもうけれど、それがあたりまえのようにできることではないということからも、だからといって目をそらすこともないようにおもいます。この映画の家族は、ほんとに、なにがあったのかわかりませんが、もうとりかえしのつかないぐらいこわれていて、主人公の帰郷が契機となって、なにか修復のてがかりをつかめないかと期待しつつも、それをだれも、本当の意味ではすなおに表現できず、しかし、それでも家族であること、12年ぶりにかえってきて、その日のうちにまたかえる、ということがあってもそうなのだということをつきつけているようにもおもいました。
ただ、「積年の」といわれるようなひととひととのいざこざには、他人に説明したところで、なんでそれがそこまでのなかたがいの原因なのかわからないということもたくさんあるとおもいます。だからこそ、この映画(もしくは原作があるので原作)は、そこをつまびらかにすることに関心をよせるよりも、本質的には簡単にうまくゆくわけがない家族のありさま、のようなものを、かよいあわない、にもかかわらずやつぎばやのことばと、執拗なクローズアップの反復によって、ぼくたちをそのただなかに強引にひきずりこみ、とりこむことによって、おもいしらせようとしたのではないか、むりやりまとめると、そんなことをおもいました。
親子も、夫婦も、家族も、結局は自然にできるものではなく、努力と忍耐と、そして「愛」とよばれるおもいやりによって「つくられる」ものだとおもいます。だから、それが全部成功するわけではないのです。それは絶望的なことでしょうか。だとしたら世界の半分ぐらいはきっと絶望におおわれていることになるのではないかな。そのことそのものに絶望するのではなく、「のりこえよう」とはないきをあらくするのでもなく、かといって達観するのでもなく、どうしようもなくそこにある「家族」と、ぼくたちはどうするのか、そんなことがこの映画がといかけることだ、といいたいわけでは全然ないのですが、なんだかいろいろかんがえているうちに、そういうきもちになりました。
そんなわけで、ぼくはすきですよ、この映画。やっとほんとうにドランに興味をもてるようになったかもしれません。まわりには大ファンのともだちがおおいので内緒ですが。

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