2014年8月19日火曜日

芸術の無邪気


ノルマンディの友人をたずねるべく、パリ、サン=ラザールえきで、列車をまっていた。すこしはなれたところから、はげしいタッチのピアノの演奏がきこえてきた。喧騒もあってよくきこえていなかったのだが、もしかしたら、セシル・テイラーばりのフリージャズ?こどもがあそんでいるわりにはちからがありすぎるねいろ、などとおもいながらちかづいてみると、「どうぞ、ひいてください」と、1台のアップライト・ピアノが設置してある一角があり、いわゆる、ホームレス風のおじさんが、たのしそうに、けんばんをたたきまくっていた(ちなみに、写真はセシル・テイラーさま、でもまあこんな感じ)。
そういうことね、とおもいながら、それでもおもしろくて、しばらくちかくできいていたのだが、そのひきっぷりは、それでもときどき、やっぱりなんかすごい、ただめちゃくちゃじゃない感じ、わるくないテンション、と、結構真剣にききいってしまった。と、おもっていたら、えきの保安員が3人づれで、ゆっくりとかれのほうにちかづき、要するに、ただめちゃくちゃひくのはやめてください的なことをいっているのかとおもったら、セシル・テイラーは、さっさと演奏をやめ、「わかったよ、やめるから」とでもいいながらだろうか、すこし距離があったのできこえなかったが、さっさとたちさってしまった。
よくかんがえてみなくても、おじさんがセシル・テイラーかどうかはどうでもいいことだった。そして、だれも苦情をいったわけでもなさそうだった。そして、現にぼくはかれの演奏をたのしんでいた。
これは 「わいせつ」のはなし とおなじだ、と気づいた。ちゃんとした「楽曲」を「演奏」していなかったので、おじさんは、やめさせられた。でもたぶん、あのおじさんが、ほんもののセシル・テイラーでも、もしかしたら、もっとうるさいだろうし、やっぱりやめさせられたかもしれない。
芸術は、だれに気にいられれば芸術なのか、だれの気にさわれば排除されるのか。
おじさんは、先述のように、まったく「抵抗」しなかった。社会のなかでの自分のたち位置のよわさを、もうすでに、いたいほどわかっているというふうだった。
あ、ぼくはなにもしなかった。「え、たのしくきいてたんですけど」とかけよるべきだったのだろうか。
あるいは、それがこどもだったら?許容されるとしたらなぜ?
でも、芸術には、大なり小なり「こども」みたいなところがある。楽器をひきならすことや、うたったり、おどったりすることは、こどものような無邪気さが必要。
社会が要求する、「おとな」の「わくぐみ」にはめこまれることに、ぼくたちはたいてい、合意し、すすんでそれに支配され、おなじことを他人にも要求する。フランスはそれが日本よりずっとゆるい。ひとりで、おおごえでうたをうたいながらあるいてるひととか、キックボードで快走している中年のおじさんが、普通にいる。それでも、こういうことがおこる。
アーティストのみなさん、ふだん、ちょっとかわってるねといわれるみなさん、まけずに、そのまま、この無言の窮屈さからぼくたちを解放してください。「普通」がいいとおもっているみなさん、それでもいいから、でもそれを他人にもおなじようにもとめないでください。わざわざぼくたち一般人が、おたがいをみはりあっているような空気をつくらなくてもいい。
列車にのりこんだ。ひさびさに、セシル・テイラーをききながら、窓外のけしきをたのしむことにしよう。

2014年8月8日金曜日

ことばの死:安部首相は広島を適当にかたづけた


このことについて、世田谷区議上川あや氏のツイートにおおきな反響があり、マスコミもそれをとりあげている。とりわけ、ハフ・ポストの分析はこまかい。
安倍は、内閣総理大臣として原爆記念の日に広島におもむき、平和記念式典であいさつし、その内容のベースが、昨年のもののつかいまわしであった(ハフ・ポストの上記分析をみればそこに議論の余地はない)。
社会人をやっていると、いろいろむだな文書を作成しなければならないこともあり、あ、これだったら、去年つくったものをバージョン・アップして、適当に、にくづけすればいいか、とやっつけてしまうことはたしかにある。ほめられたことではないが、そのような文書をつくらされることにたいする内心の抗議のきもちから、これで十分ですよ、どこがわるいんですか、といったきもちでそうすることもあるだろう。
社会人をやっているとそういうこともあるが、それは、かならずしもしごとをサボるためではなく、そういうものを適当にかたづけ、より重要な業務に十分な時間をさくことで、しごとの効率をあげるためである。そのぐらい、なぜだかわからないがぼくたちはいそがしい。
安倍が広島でやったこともこれとおなじことである。安倍は総理大臣なので、まちがいなくとてもいそがしい。いそがしいので、広島は適当にかたづけて、かれにとってのより重要な業務にきっと時間をさいたのだ。安倍は、広島を適当にかたづけた、これをどう評価するかということだ。
安倍はもとより言論を軽視している政治家であることは、ぼくにかぎらずおおくのひとがいっていること。自分がきめたいことを十分な議論もないままに決定し、あとで「もっと丁寧に説明すべきだった」、だったらなぜ、というはなし。また、ぼく自身も、かれの「積極的平和主義」というなぞの用語や、「原発はベースロード電源」といったごまかしのものいいについてこのブログにかいた(前者について、その後、平和学の専門家であり、ガルトゥングの訳者でもある奥本京子氏が、ぼくと同趣旨の、かつ百倍しっかりとした学術的根拠にもとづく発言をされていることをよろこびとともにしった。フェイスブック加入者には、このリンクでその文面が公開されている)。
安倍の言論は、このようにごまかしと不備にみちている。言語をばかにするな、とおもっていたら、この事件で、安倍からはもはや、原爆記念の日の広島においてさえ、いきた人間のことばがでてこないのだということをおもいしらされた。ぼくたち国民は、なぜ安倍が、ぼくたちの税金をつかって、わざわざ広島にいって式典であいさつすることをよしとするのか。国の政治・行政の代表者が、その日に、そのばで、肉声で、そのときのさまざまな状況をふまえて、ましてその特権的な、無数の国民がみみをかたむけるその空間で、血のかよったことばで、平和と核兵器の廃絶をうったえることをまちのぞんでいるからである。きょうの安倍は1年まえの安倍とおなじではないし、おなじであってはいけない。きょう、いま、平和と核廃絶のために、内閣総理大臣がなにをかんがえ、なにをことばにするのかをぼくたちはしりたかった。はじめからおわりまで、きょうの、かれのことばできけるとおもっていた。それを、かれはまた愚弄した。「ことしもまた広島のあれか、去年のやつの、今年ように適当になおしといてくれる?それでいいでしょ、いそがしいし」こんなことばがきこえてくる。
「積極的平和主義」についてのブログにかいたように、安倍は「平和」の語の意味を理解していない。安倍には、「平和」とはなにかが理解できない。そんなひとだから、今回の事件にぼくはあまりおどろかなかった。そして正直、まえの段落にかいたような、かれのことばへの期待など、うしないきっていた。でも、ここまでやるとおもわなかった。ことばがおかしい、まやかしにみちているだけではない、もうかれのことばは死んでいる。あやまってほしい。そうでなければ退場してほしい。