2012年11月26日月曜日

かみしめる時間 – ツァイ・ミンリャン『楽日』–

 
台湾の映画作家、ツァイ・ミンリャンの2003年の作品『楽日』を、映画館でみることができました。家庭用ビデオと、ビデオ・レンタルが普及してから、映画を映画館でみるのか、家でビデオでみるのか、ということを、ぼくのような中途半端な映画ずきも、それなりにかんがえてきました。そしていつのまにか、「この映画は、ビデオで十分」といようないいかたを、つくったひとの気もしらずにいってしまったりするようにもなった。「映画は映画館でみるべきである、だけど」のあとにつづくことばはたくさんあります。「たかい」「時間がかかる」とか。そのうちに、家庭用のテレビ画面はどんどん大きくなり、画質も音響もよくなって、いつか映画館はなくなってしまうのか。それでも映画館でみなければいけない映画館はあるのか、というときに、この作品は、と『楽日』をちゅうちょなくきっとあげることができるだろう。そんな作品でした。ツァイ・ミンリャンは90年代後半からの作品をいくつかみましたが、長編としては『楽日』の前作にあたる、『ふたつの時、ふたりの時間』という作品がとてもすきで、それこそDVDまでかったのに、すこしぼくは、この作家の作品をさぼっていました。そして、それをとてもくやみました。
「いつか映画館はなくなってしまうのか」とうえにかきましたが、みたひとならご存じのように、この映画は、この日を最後に閉館してしまうふるい、おおきな映画館を舞台にしたはなしです。ウェブですこししらべてみたら、こんなふうにかかれた文章をみつけました。
「この映画は、言うまでもなく映画と映画館、さらには映画を見るという行為への愛の映画である。監督のツァイ・ミンリャンは、台北に実在する古い映画館が閉 館すると聞いて、その建物を半年間借り受け、そこで1本の映画を作ることを即決した。そしてキン・フーの『血闘竜門の宿』のプロデューサーに掛け合い、こ の「閉館する映画館の巨大なスクリーンに最もふさわしい」作品を使用する快諾を得た。」(http://prenomh.com/prev/tml-movie/2006/rakubi/index.html2012/11/26確認))
このリンクの全体をよんでもらえれば、映画の概要や、この映画のひとつのただしいみかたのようなものがわかります。そのことについては、ここではくりかえしません。すこし、ちがうことをかいてみようとおもいます。
ツァイ・ミンリャンの作品をぼくは数本しかみたことがありませんが、いつも、この作家の作品には、誤解をおそれずにいえば、一種、あまり映画らしくない時間がながれているという印象をうけていたのですが、この作品でもそれはおなじ、というか、この作品こそ、その「映画らしくない時間」が作品全体をおおっているような気がしました。
よくしられているように、ツァイ・ミンリャンは、とてもとても「長回し」な作家です。カメラがある場所におかれて、そこから、そのシーンがおわるまで、じっとうごかないカメラとおなじ場所から、観客は、じっといきをころして、そのカメラがとらえたフレームのなかの、あるいはフレームのそとにある時間のながれを、カメラと、あるいは人物たちとすごさなければなりません。正直にいうと、ぼくはこの作家の作品をみているとときどきふーっと睡魔におそわれることがある。そして、一瞬のゆめうつつのあと、あ、うとうとしてしまった、とおもっても、画面はそのまま、まるで、うたたねしそうになったぼくのことをまっていてくれたように、やさしく、ぼくを映画の世界のなかにひきもどしてくれるのです。
ほんとうはこれこそが、「映画らしい時間」というべきなのでしょう。でも普通の映画はそうではない。90分とか120分とかいうかぎられた時間のなかで、ひとつの完結した、大なり小なり整合性のあるものがたりを構築するために、時間は編集される。はなしのながれをおうために必要なせりふや人物の行動が、もちろん芸術的な配慮もふくめて、「ちょうどのながさ」にきりわけ、編集されて、「はい、それでそのあとなんだけど」と映画のなかの時間は、通常はながれてゆく。じっとうごかないような時間がそこ展開することもあるけれど、それもその必要があるからこそそのように配置された時間ではありつづける。それが一般的な映画的時間のながれなのではないでしょうか(もちろん、そんな単純な一般化をするものではないともおもいますが、議論のために、このようにまとめさせてください)。
これにたいして、ツァイ・ミンリャンの作品、とりわけこの『楽日』では、そのような映画的な時間のながれでものごとは進行しない。もちろん、それとて作家によって計算されたもの、編集されたものであることを否定するものではありません。でも、すくなくともぼくのようなしろうとにそれを感じさせることなく、ぼくたちは、作中の時間を、作品といっしょに、ぐっとかみしめながら、その映画の時間のながれのなかに身をおかなければならない。82分という、長編映画としてはけしてながくない上映時間のあいだ、それでもせりふらしいせりふは4つか5つぐらいだろうか。あとは、ぼくたちのまえに展開するのは、閉館予定の映画館ではたらき、映写技師におそらくこころをよせて、おおきなまんじゅうをかれのためにあたためたりしている若い女性、同性愛者のであいの場所となっているとおぼしき館内で、席をたったりすわったり、おちつきなくうごきまわる日本人の青年、まごをつれ、自分のわかかりし日のすがたを画面の中にみすえる老俳優、もうひとり、おなじように画面のなかの自分と対峙しながらなみだぐむ壮年の俳優といった人々が、大きなその映画館のなかで、ぎりぎりのところで、たがいにかかわりあっているのかいないのか、という、観客には不可思議な時間のながれのなかで、それぞれうごめいている、そんな映画だ、といえばいいのでしょうか。
カメラもまた、ひとつひとつは超がつくながまわしなのですが、いりぐち、客席、廊下、トイレ、映写室、券売のまどぐち、倉庫といったこの映画館のいろいろなところに身をおき、くらやみとひかりがおりなすふしぎな、そしてうつくしい映画館最後の日の風景をうつしとっています。それはたとえば、長年つかってきて、とうとうつかえなくなった道具をすてさるまえに、つかえなくなったそのディテールをつぶさにながめなおすときの、でもそれはなごりおしさやノスタルジーといったものではない、もうすこしなまなましい表面のてざわりの感覚そのもののようなもの。そのなまなましさは、ツァイ・ミンリャン得意の雨、この作品のすべての時間にふりつづいている雨のしめりけによって、ぬらりとひかる表面として強調されているともいえるかもしれません。雨は、当然映画館の外部でふりつづいているのですが、その映画館はとても古いのでいたるところで雨もりや水もれがあって、「天候」としての雨の外部性、あるいはたてものとしての映画館の内部性は部分的にとりけされ、映画館という隔離された時間のながれのなかに侵入してくる。そして驟雨といってよいそのつよいあまおとは、映画館のなかの時間と、外部の時間を交錯させ、ぼくがさっきからかこうとしている「映画的な時間」ではない、かといってリアルともちがう、もしかしたらこれが本来映画をみるときにかんじるべきであるような時間のながれをきざもうとしているような、そんなきもちになりました。映画の最後に、カメラは無人の客席の全景をとらえそのまま5分間まわりっぱなし。さきのリンクにはこれについて以下のように書かれていました。
「ヴェネチア映画祭でのこの映画の上映は、ちょっとしたハプニングとして今も語り継がれている。映画の終盤、空っぽの観客席をスクリーン側から捉えた不動の ショットが5分間続く。そのとき、観客の反応は真っ二つに分かれた。何かの間違いではないかと、腰を浮かせ、ざわつき始める観客たち、そして感動のあまり 息をするのも忘れて静かに涙を流す観客たち――。」
でも、この作品は、いまもすこしかきましたが、なにか「リアル」な「現実の」時間のながれをあらわしているのではありません。つまり、なにかしらドキュメンタリー的な時間がそこにあるのではない。そのようにいうには、この作品はあまりにもものがたり的なものです。ただ、「ものがたり」がそうであるように、もつれたいとがほどかれたり、はなれていた糸のさきがむすびあわされてあたらしいむすびめができるような、そんなものがたりではなく、むしろ、どこにもむすびめができないことがものがたりであるようなものがたり。
館内をうろうろとうごきまわる日本人青年は、ほかのおとこたちのようにゲイで、つかのまのパートナーをもとめているのかいないのか、かれによりそう、といより「隣接してくる」といったほうがちかいさまざまなおとこたちは、かれとのものがたりをつくろうとしているのかいないのか、みているぼくたちにはよくわかりません。券売のおそらく片足が義足の女性は、巨大なまんじゅうをあたためながら、おそらく映写技師にこころをよせているのだろう、とぼくたちは想像することができるけれど、彼女がそっと映写室のかたすみにおいたまんじゅうの半分は、当の技師に気づかれることなく、彼女はそれをふたたび回収してしまう。上映がおわり、その彼女が荷物をまとめてしごとばをはなれたあと、おなじようにあとかたづけをすませて映写技師がおりてきますが、そこには彼女はもういない、そしてかれは券売まどぐちのなかのなべにのこされたまんじゅうの存在にきづき、ふりしきるあめのなかを、もしかすると彼女をさがしてオートバイででてゆくのですが、彼女はまだものかげからそのかれのようすをみていた、というすれちがい。
「映画」がつくりあげてきた「映画的な時間」は、もしかしたら、ぼくたちがひごろの、現実のなかであじわう「なにもおこらない」時間の重力のようなものをきりおとしすぎて、「映画的な時間」を構築したと同時に、「映画がえがいているはずの時間」の感覚を解体してしまったのかもしれない。映画の中では、そこでなにがあったのか、その後のものがたりのために必要ななにがいわれたのか、なにがなされたのか、ということが表現され、理解されればつぎの画面、つぎの時間のながれにすぐに移行してゆく、そしてそのことに観客は大なり小なり安心して、映画の「映画的な時間」に身をまかせることができる。でもぼくたちは、ほんとうはそんな生をいきているわけではない。なにもおこらない時間、ただあしおとがひびき、もれくるひかりをながめ、たちすくみ、まどろみ、なにかわからないものにおびえつつけっきょくそれがなにかわからずおわってしまう、まってみたけれどなにもおこらない、なにかがなんらかの結果にむすびつかない、そんな時間をいきていることがほとんどで、それでも、そういう時間のながれのなかに、いろいろなものがたりをみつけながらいきてゆく。映画はしょせん1時間半なりのはこにはいったつくられたものがたりだけれど、そういうふうに編集されたものがたり以前のゆったりとした、でもそれなりの緊張感のあるときのながれのなかにこそ、「映画らしい時間」が再発見されるのかもしれない。けれど、実はそれはもうちょっとておくれで、映画館の映画は、もはやそのやくわりをおえてしまった。ぼくたちは、ごみばこにすてるまえのつかえなくなった古びた道具のディテールをひとしきにながめまわすように、でもそれはほんとうに宇宙全体のようにぼくたちのこころのすみずみにとどくものであったものをおもいだしながら、日本人青年がひとことだけ発音する「さようなら」という日本語のせりふに象徴されるように、わかれをつげているのかもしれない。
そんな映画を、映画館でみることができたのは幸運でした。近所の映画館が「宝塚映画祭」というちいさな映画祭の会場で、そこでの上映作品のひとつとしてえらばれたことで、この映画の存在をしりました。そのぐらいぼくは、ツァイ・ミンリャン監督のことを、すこしわすれてしまっていた。そしておもいだしました。
映画はでも、まだきっとおわっていない。ぼくはそんなことをロマンチックにかけるほど映画愛好家とはいえないけれど、映画のおわりをえがいたこの作品は、それでもどうしても映画館にぼくたちはでかけなければいけない映画があるのだということを、逆説的にしめす映画だったということなのでしょうか。

2012年11月4日日曜日

『終の信託』のナイーブさ


これでまた、尊厳死・安楽死を擁護するディスコースがひとつつむがれてしまった。この映画は、いくつかの批評でいわれているように、公平な視点からとられたものではなく、「パイプをいっぱいつながれて、肉の塊になっていかされる」生を、「はたらくこともできず、医療費ばかりつかってしまう自分がもうしわけない」生を、やはり、はっきりと否定しているという点で、ステレオタイプな尊厳死擁護論をなぞっただけのものでしかない。
「自分の生(死)は自分できめる」というきりふだのようなものいいがある。自分で自分を評価するのだから、自分を「肉の塊」とよび「生きているのがもうしわけない」ということは、それはそれでかまわない、どころか、ある種の「利他」の意思表示であると肯定的に評価される。しかし、そうやってきめられた「自分の生」は「生」一般についての議論と無縁でありうるか。それは無理である。
自分で決めた自分の生は、パイプだらけで生きている人をみて、「おれはああはなりたくない」「あんなふうにして生きていてなにがいいのだ」と思ったうえでの判断ということになる。つまりそれは、自分の生だけではなく、他者の生についてもそのようなものいいが可能になるような土壌を準備することになる。
くるしいけど生きたい人がいるかもしれない、くるしいなら生きたくないといっていても、(映画の中の「悪役」検事がいっていたように)そのときになればわからない。主人公の「患者は、くるしくても、それを意思表示することができない」というせりふは、そのまま「患者は、やっぱり生きたいと思ってもその意思表示をすることができない」といいかえられることで、その根拠をうしなうことになる。
「そんなふうに生きていてもしかたない」生はありえない。だから、ひとは、自分の生だからといって、それについて同じようにいうこともできない。そのようなかんがえをすこしでも肯定する表現活動も、おおいに批判されなければならない。
患者のくるしみは、ではしかたないのか、くるしんでいてもがんばってもらうしかないのか、ということになるというのではない。それをどうするかは医療や社会がこれからずっとずっとかんがえてゆかねばならないこと。注意をはらうべきなのは、『終の信託』のような映画が、商業映画、つまりエンターテイメント作品として多くの人にみられてしまうこと。ことの一面だけをとらえたかたりがかたられつづけることに、くちをさしはさむことができないということ。
周防正行監督に、このようなナイーブな生命観にのっかった商業映画をつくってしまったことについて、そしておそらくはこの作品におよぶ(ことをのぞむ)多くの批判について、ご自分のたちばを、はっきりとしめしてもらいたい。表現の自由があるかぎり、たとえばこのような映画のかたりを阻止しなければならないというのではない。わたしとおなじように、これに異をとなえようとするものが、これにしっかりと対抗するものいいをつむいでゆかなければならないということをあらためて痛感したということ。