2014年7月15日火曜日

「ろくでなし子」逮捕:3. 「感動大作」とポルノは一字ちがい


『世界の中心で愛を叫ぶ』ぐらいから、つまり、世紀のかわりめぐらいから、大衆芸術の世界では、「なける」ことがその芸術的価値判断の基準でとても重要な位置をしめるようになった。きちんと社会学的な調査をだれかにしてほしいものだが、映画や小説の広告などに、「なみだがとまらない」「こんなにないたのは」と、とにかく「なける」作品であることが喧伝され、それを鑑賞したものがまた「めっちゃないた」とはやしたてる。そして「めっちゃないた」ことがイコールその作品の価値であるようないいかたをしてはばからない言説がはびこることになる。芸術でなくことはぼくもしょっちゅうあるけれど、ないてしまったからといって、それがかならずしもすばらしい作品だということにはならない。ただ、なくことは、きもちのいいことだ。それだけ感情移入できて、なんだかもとをとったようなきもちになる。そしてそれに「感動」という形容があたえられて、ふだんくやしかったりかなりかったりしてないたときとは別の価値があたえられる。「感動」ということばは、いつのまにかとてもやすっぽいことばになってしまった。
だが、「なく」ことは、感情をおさえられずにもらしてしまうことにほからない。そしてそれがきもちいいから、いい映画をみた、いい本をよんだというきもちになるが、ふりかえってみると、作品そのものは実はたいしたことないというばあいもすくなくない。あとでふりかえると、ちょっとあざとかったよなとか。それもふくめて「なける」=よい作品というのは、はやとちりだし、これだけ「なける」がうりものにされると、芸術の価値について、むしろまちがいをみちびくものになりかねない。「感動大作」も商品である以上、そこに、つまり「なける」ことに目的をしぼった作品が量産される可能性もある。そうなると、これはほとんどポルノとおなじだということ。大変下品なことばあそびで恐縮だが、「なける」の「な」を「ぬ」にかえれば(男子限定になるが)、そこでおこっている/ひきおこされることはまったくおなじ。「ぬ」に目的をしぼった作品が男性むけポルノで、「な」が、俗悪な「感動大作」ということ。
もちろん、だからといって俗悪な「感動大作」があってはいけないということではない。ただ、それは芸術とはいえない。芸術と娯楽のちがいはなにかという、これはまたおおきな議論になってしまうが、もうすこし冷静に区別してもいいのかもしれない。「感動大作」は、しばしば芸術性もたかいとかんちがいされてしまうが、実際には逆であるということ(注意:もちろん「なける」映画がすべて娯楽作品であるというのではない。乱暴な一般化をしているからこそ「」のなかにいれて論じている)、そこだけは注意する必要がある。
インテリが、「感動大作」をゴミだといって排除しても、それをつくった監督や作者をつかまえて刑務所にいれるということにはならない。それがたとえ「なける」ことだけに目的をしぼった浅薄な作品だったとしても。これは納得できる。ところが、「わいせつ」は、「な」が「ぬ」にかわっただけなのに、インテリのみならず、すべてのひとがその存在自体を基本的に軽蔑する(もちろん、そこには、さきにのべたように、そこに付随する暴力・虐待にくわえて、そういう付随物がなくてもポルノ自体が女性蔑視であるかというおおきな問題がある。だからこそ、いまここでは、ポルノ全体を射程にいれた議論はできない)。そして、ちょっとしたことで逮捕されるということにもなってしまう。
ここでもういちど、ろくでなし子にもどってくる。「芸術です」と作者がうったえれば、乱暴に刑務所にいれるまえにはなしをきかなければいけない。「な/ぬける」だけのゴミのような「感動大作」とポルノがこれだけ蔓延している世界で、性器の表象を禁じる(くせにそれがだいすきな)おじさんたちの偏執を、 自身の性器の「プリント」によって告発する芸術家を、なぜここまで簡単に逮捕し、きずつけることができてしまうのか。そこには犯罪性、暴力性のかけらもないどころか、女性蔑視にたいするカウンター行動のひとつとして解釈することさえ可能である。
「わいせつ」はおそらくぼくたちのなかにたしかに存在する。けれどこれは警察に判断できることではない。だから刑事てつづきでこれを判断することはできない。もし判断が必要であれば、すでにのべたように、専門家を複数まじえた議論のばがどうしても必要である。そのプロセスなしでいけるのは、事件に犯罪性や人権侵害が付随しているばあいにかぎるべきである。こうしたことをきちんと判断するのは容易ではないが、そのちからを、それでもぼくたちの社会は獲得しなければならない。警察や国家が、一元的な判断主体になってしまえるような社会はおそろしい。そうでないと、表現者ばかりが今後もきずつきつづけ、自由な表現が破壊されつづけることになるだろう。また、あらゆる判断の主体が市民自身であることによってのみ、成熟した文化的な社会が期待できる。今回あつかった問題以外もふくめ、そちらにむかおうとしない現実を、おおいに憂慮する。と同時に、警察以上に、上記のような報道を安易にしてしまったマスコミを断罪する必要がある。


「ろくでなし子」逮捕 :2. 「わいせつ」それ自体は犯罪ではありえない

ろくでなし子そのものについては以上だが、この機会に「わいせつ」についてもうすこしのべておきたい。わいせつなものは、たしかに存在するとおもう。個人的な感情のレベルで、これは、ただそれだけのためね、とおもえるものがそれにあたる。しかし、わいせつな表現の媒体は、写真、印刷物、映像、絵画、演劇、パフォーマンスなど、芸術がもちいるメディアに完全にかさなる。「わいせつ」は、なんらかの表象についてくだされる評価なので、当然といえば当然なのだけど。かさなってしまうので、芸術表現の一環としてそれをやっていても、それ「わいせつ」と嫌疑をかけられてしまい、今回のようなことになる。ぼくたちがこれにたいしてできることはひとつしかない。年少者への性的虐待や、強制された暴力性、売春などの別の犯罪性がみえるばあいは別として、i)「わいせつ」かどうかを、まず警察が判断してとりしまるということをしない(刑法改正)。そして、ii)「わいせつ」といわれても、「いえ、これは芸術なんです」と当事者がこたえたら、その「わいせつ」ポイント以外に犯罪性がとえないことがあきらかなばあい、当事者と専門家をまじえた議論によって解決する(できないばあいには民事法廷で)。
「わいせつ」は、なんどもかいているように個人的な問題なので、だれもそうおもわなければ存在しない。よく、ある対象について性的な連想をしてしまい、それをはなすと「そんなふうにいうのおまえだけだぞ、いやらしいな」というばめんがある。警察がそうおもったのなら「わいせつ」というのは自由だが、だからといってすぐに逮捕とかではなく、みんなにきいてみる。きいてみて、だれも「わいせつ」といわなければ、警察がいちばんわいせつだということになり、ごめん、ぼくだけでしたととりさげていただく。また、「わいせつ」の犯罪性は、もちろんものにもよるが、すくなくとも、にせ札のように、その存在自体が健全な貨幣経済を直接おびやかすおそれのあるものとはならない。だからこそ、ポルノは一定のわく内でこのくにでもみとめられている(もちろんポルノ自体の是非をとう別の議論は可能だ)。さきにちらっと言及した幼児虐待や暴力性、売春などは、そもそも「わいせつ」に付随しておこる「別件」であり、「わいせつ」そのものは、刑事的なものではありえない。たとえばスポーツ新聞のエッチ・ページをこれみよがすのが「わいせつ」で我慢がならないので、条例で禁止してもらうとか、風俗店の看板が通学路にあるのでどけてくださいとか、そういう次元のこと。
「わいせつ」を犯罪と即断してしまうことは、それによって確保されるかもしれない社会的正義よりも、今回のような表現の自由をあきらかに侵害してしまうばあいがおおいのではないかとおもう。そして、このような「とりしまり」が常態化することで、これは「わいせつ」云々だけではなく、警察国家を招来させるものにもなりかねない。そのへんの懸念もおおいにある。
「わいせつ」は、個人のなかにおこる、「うわ、やらし〜」という感情・欲望レベルのことで、さきにのべた表現媒体が共通することにくわえて、そもそもが個人の感情や欲望におおいにうったえることがその本質のひとつである芸術表現とのかさなりがどうしても問題になってしまう。だから、警察が簡単に規制できるものではないし、それをするなら、芸術を愛するものとしては、もっとほかにも規制してもいいのではないかとさえおもってしまうことがある。最後にそのはなし。

「ろくでなし子」逮捕 :1. 「千円札裁判」にまなべ

もうかれこれ50年ほどまえのことだが、「千円札裁判」というものがあり、「芸術とはなにか」という問題が司法の現場で議論される一大イベントになった。発端は、赤瀬川源平が制作した当時の千円札を模した作品が、「通貨及証券模造取締法」違反にあたるかどうかということをめぐり、「事件性よりも法の場において芸術をめぐる言説空間が膨れ上がった」(成相肇)。ぼく自身はこのようすを赤瀬川の著作でかつてよみ、おおいに興奮したが、「「千円札の模型」が芸術だという理解がない裁判官に向けてアピールするため、高松次郎、中西夏之らが弁護人として「ハイレッド・センター」の活動について法廷で説明し、当時における「前衛芸術」の状況について説明した。また、他の関係者の「前衛芸術」作品も裁判所内で多数陳列され、裁判所が美術館と化した」(ウィキペディア)。
昨日、漫画家・アーティストの、ろくでなし子が、自分の性器の3Dデータを頒布した嫌疑で逮捕された。刑法の「わいせつ物頒布等の罪」の違反にあたるということが推察される。メディアは、逮捕の時点で、彼女があたかも犯罪者であるかのように、「自称芸術家の○○歳のおんな」(フジテレビ「スーパーニュース」:実際には実年齢が明言されている)などと彼女について言及し、「自称」とする時点で、ろくでなし子のアーティストとしてのアイデンティティを否定してはばからない(ちなみに、ぼくが確認したかぎり、日本の英語メディアでは、おなじ新聞社のものでも、「自称」にあたる表現はなく、単にartistとされているものばかりだった。ダブルスタンダード)。
ちなみに、ウィキペディア(上記リンク)によると、上記の「千円札裁判」においても、あの赤瀬川が「同 (1964) 127日に、“自称・前衛芸術家、赤瀬川原平”が「チ37号事件」【当時話題になっていた別のニセ札事件】につながる悪質な容疑者であると、朝日新聞に誇大に報道され」たそうである。日本のマスコミは、すくなくとも50年まえからまったくかわっていない。
今回の事件にあたり、まず、当事者である、ろくでなし子氏が即時釈放され、起訴されたとしても、こうした当局の抑圧にまけることなく、きちんと司法でたたかっていただくことを希望する。「千円札裁判」の例がしめすように、判決のいかんにかかわらず、このようなかたちで、法のばにおいて芸術をめぐる言説空間が展開することはひとつのチャンスととらえることもできる(※このことに関連して、彼女の今回の行為を確信犯とするかきこみなどもみたが、これについてはどちらでもいいとおもう。確信犯なら、彼女自身があまりきずついていない分、むしろよかったというべき。ただし、とりしらべ中にまちがいなく彼女にむかって展開されるセクハラ的言説を想像するとこころがいたむ)。
メディアは50年間かわっていないとさきにのべたが、時代はそれでもすこしはかわっている。フェイスブックもツイッターもある。安保闘争以来とだえていた「動員」も、震災とファシスト政権の横暴の「おかげ」で再活性化しているのだ。なにかおもしろいことができるかもしれない、とおもいたい。千円札裁判のときには、裁判所に「これも芸術です」と、からだじゅうに洗濯バサミをつけまくった中西夏之が「証人」として登場するなどといったことがあったという。今回は、「偽造」か「芸術」かではなく、「わいせつ」か「芸術」かが問題である。ツイッターなどでよびかけて、世界中から性をテーマに活動するアーティストが証人としてあつまった法廷は、壮観であるにちがいない。特別にユースト配信なども許可してくれたりしたらもっといい(無理か)。ぜひひとにぎわいさせてほしい。そして、フジテレビをはじめ「自称芸術家の○○歳のおんな」といったいいかたで、彼女の本名と年齢を開示し嘲弄したメディア各局には、名誉毀損のつみをとい、芸術のなんたるかをまったく理解していない(というか判断していない)、まさしく「マスゴミ」でしたすみませんと公式に謝罪させる必要がある。そのぐらいぼくはおこっている。

2014年7月1日火曜日

「なまの世界」をしりえぬひとたち

https://pbs.twimg.com/media/BoKjX9TCUAIJ0Lf.jpg:large

ぼくたちは、もうほとんど直接なにかをすることがない。それはしかたない。くつをはいたから、はだしであるくとけがをするようになってしまった。そういうことがかさなって、ぼくたちはいま、「なまの世界」(というものが想定できるとして)からはとてもとおい、間接的なところでくらしている。にくをたべるが、動物をしめころしたことがない。無人機をあやつって爆弾をおとしたことはあるが、つるぎをもってひとにおそいかかったことがない。

文明の「たかさ」は、たぶん、ぼくたちが「なまの世界」からどのぐらいとおくの、「たかい」ところまできたかということではかられるのかもしれない。

そして、たかいところへいけばいくほど、したでおこっていることがわからなくなる。政治の世界のマジョリティのひとたちはみな、社会のなかでもっとも「たかい」ところにいるひとたち、つまり、「なまの世界」からいちばんとおくの住人です。

いまも失言のおおいかつての総理大臣が、カップラーメンの値段もろくにしらなかったことで批判されたことがあった。そんなことは全然たいしたことない。問題は、首相や閣僚も、だれも原発の近所にすんでいないし、これからもすむことはなく、自衛隊が武力行使をするからといって、その部隊に参加することも(自衛隊員ではないので当然だけど)、まして前線にたつことなど絶対にないということ。

いたいし、こわいからいやなのだ、基本ぼくらは。それでも必要なものというのがあるのだ、というのなら、再稼働する原発周辺地区に首相官邸や再稼働推進派ご一行さまのニュータウンをおけないといけない。「そんな危険なことを」といまいいませんでしたか。まさか。原発は「安全が確認できたら再稼働する」のですよね。「安全」とは、有事の際に付近住民に被災者がでないことである。「すこしでるかもしれないが」ということは、民主国家ではゆるされない(これは説明しない)。被災者はでないはずだ、だから再稼働を推進し、その政策をすすめる首相は、そこにすめなければならない。そんなことをして「首相にもしものことがあったら」とだれかひとりでもいうひとがいたら、それは即刻問題発言になる。ほかのひとだったらいいのですか。いのちを天秤にかけていませんか。めっそうもない?それならすんでください、だから、あなたがあそこのすぐよこに。

武力行使もおなじだ。みみにあたらしい自民党の野田聖子のすこしまえの発言:「集団的自衛権が行使できる、武力行使ができるとなれば自衛隊は軍になる。軍隊は殺すことも殺されることもある。いまの日本に、どれだけそこに若者を行かせられるのでしょう」野田氏は行使そのものに反対しているわけではないとはいえ、この点についてはもっともである。にもかかわらず、以降も「ころす」「ころされる」ことを意識した議論が、結局なにもなされなかった。

武力行使になったら、安倍さんにもいってもらいましょう。いや、そんなことをいうのはやぶへびで、結構かれは気のりされるかもしれない。迷彩服とかきてよろこぶぐらいだから。いやいや安倍さん、指令隊長とかじゃないですよ。「前線」です「前線」。あなたがきめたことで、ここにたってドンパチやるひとがいるということです。いままでいなかったのに。それ、自分にはできないとゆってはだめですよ。ということで、集団的自衛権行使の記念すべき第1回では、安倍さんに前線にいっていただく。それができ(そうに)なければ、やってはいけない。「なまの世界」の当事者になる気がはなからないのだったら、そんなたかいところからいうのは、もうやめてほしいのです。いや、ほんとうにいい迷惑。

これは安倍さんには直接関係ないけれど、死刑制度もおなじです。森巣博がおなじようなことをいっていたけれど、死刑制度を支持するひとは、全員「裁判員制度」とおなじように「死刑執行員制度」の名簿に登録され、順番に執行にたちあわなければいけないことにする。これは全然過激なことではありません。過激なのは、この制度を支持することのほうです。自分では手をよごしたくないのに、この、いきている資格のないひとをころせということにまさるハイパー・ブルジョワジーはありうるでしょうか。

間接的な生をやめるのはそれでもむずかしい。でも、屠殺をみたことないけどパックのおにくをたべる、ぐらいのアマチュアの間接ライフをゆるしてもらうかわりに、人間のいのちがかかわる間接性からは、ぬけでないといけない。そうじゃないとずるいということになる。ひとがしぬかもしれない(原発・戦争)、ほんとにしぬ(死刑)ということがかかわることを支持するためには、それを直接の世界、「なまの世界」でひきうける覚悟がないといけない。そして、ほんとはもちろん、そんな覚悟をつける必要はまったくないのです。安倍さん以外は。