2014年4月29日火曜日

田村尚子『ソローニュの森』



ぼくたちは、いろいろな約束ごとでかためられた世界のなかでいきている。約束ごとでかためられた状態のことを「制度」という。もちろん、「制度」はそれ自体ではわるいものではないが、いまのよのなかでは、かなりこまかいところにまでそれがはいってきているので、ふとわれにかえると、なんだかとても窮屈なことになっていると気づくことがある。
ことば、言語も「制度」の代表的なもの、というより、言語が、それ以外の制度のもとになっているといってもいいぐらい、そういう、「制度づくり」という、社会的な存在としての人間の基本的ないとなみのベースをになっている。
ぼくは、ふだん、しごとでは、ことばのことばかりかんがえることがおおいのだけれど、それも、「どんな研究をしているのですか」といわれても、うまくイメージしてもらえるようなこたえができないぐらい、なんだか、ぎゅっとしたことをかんがえている。ことばのことをかんがえるときは、意図的に、ことばのことしかかんがえないようにしている。
でも、きっとそれだけに、しごとじゃないときは、ことばとことばのあいだにあるようなもののことばかりかんがえていることに、最近気づいた。しごとのときは、ことばとことばのあいだには、なにもないことにしているのだけれど、ほんとうはそうじゃない、そこからこぼれでているもののようなものをさがしあるくようなことをする。
「井のなかのかわず」のはなしのように、「制度」は、いったんそのそとにでることができて、それを客体化できるようになると、なんでそんな約束にしたがっていたのか、とおもうことがある。全寮制の私立高校にかよっていたしりあいが、いまおもいだすと、あれは刑務所とおなじだった、とか、そこまでいかなくても、あの頭髪規則とか、制服のながさやはばがどうしたとか、くつしたのいろが、とか、なんだったのだろう、と、ぼくたちはおもえる。
そして、実はぼくたちがいまいきている「社会」そのものについてもそうだということに気づく視点をもつことができるだろうか。よくよくかんがえると、なんでこうなのか、理由をとうてもこたえがなさそうなこと、いや、「制度」というのは、「そうきまってることなんです」「規則ですから」といういいかたにあるように、そもそも理由をとわれることを前提にしていない約束ごとでくみあげられた世界のことなのだ。
ぼくたちは、それがどこかでわかっているか、わかることができるところにいる。でも、そこはとわないで、「そうきまっている」ことをうけいれ、そのかわりにえられるものを享受することをえらんでいる。便利な社会、物質的なゆたかさ、など。「常識人」になることが、いちばん賢明な選択。そしてできれば「かちぐみ」にのこること、そこまでいけば、心配のないくらし、おもしろおかしくいきられる生活がまっている。いろいろがまんするし、ときにはひとにもっとおおくのことをがまんさせる(抑圧)ことにもなるけど、それでもそのほうがいいひとたちによって、現代の文明社会ができている。
ことばとことばのすきまからこぼれおちるものが、ほんとはいくらでもあることがわかっているのとおなじように、ぼくたちはそれでも、ほんとは世界がそんなにパキパキしていないことをしっている。しかし、そのことをかんがえるとしんどくなるから、やめておく。おおくのひとたちがそうする。でも、それができないひとたちもいる、あるいは普段はそれができても、できなくなる瞬間をあじわうことがある。あるいは、パキパキした世界のはざまにみえてくるもののほうに、こころやからだがよろこび、祝祭的な気分につつまれることもある。おまつりやおどること、それがもっと先鋭化すれば、芸術表現になる。芸術は、ときに、バランスをうしなって、ころんでたちあがれなくなりそうにになるぼくたちのこころをすくってくれることがあるが、それは、そんなわけで当然のことなのだ。
田村尚子の『ソローニュの森』(2012 医学書院)は、彼女が6年間かけてかよいつづけた、フランスのラ・ボルド病院という精神病院を舞台にしてとられた、うつくしい写真と、彼女自身による文章をあつめた作品だ。ラ・ボルド病院の創始者であり、現在も院長であるウリ医師とのであいがひとつのきっかけで実現したということだが、これはいわゆるフォトジャーナリズム的な作品ではない。これをみて、よんだからといって、ラ・ボルド病院についてまとまったことがわかるわけではないし、田村の文章も、写真のキャプションのようになっているわけではないから、ぼくたちは、文章と写真を何度もゆききしながら、そして結局このひとがこの写真のひとで、ということを完全に確信できないままの部分ものこったりする。そして、この病院では、医師やスタッフが白衣や制服をきて、ということもないので、どのひとが患者で、というのがわからないばあいもある。
この写真集がすばらしいのは、それが、ことばとことばのあいだからこぼれでるもの、あるいは制度やそれを構成するさまざまな約束ごとのわくにおさまりきらないものを、11枚の写真のうえにやきつけているようなかんじがするところだ。いい写真は全部そうなのかもしれないけれど、それがとてもよくわかる(でも、なにがとてもよくわかるのかということををかんがえるのにはとても時間がかかったけど)。田村が被写体にした患者たちは、うえにかいた意味での「制度」のなかにおさまらない、あるいはそれをうけいれないひとやものたちではないかとおもう。ラ・ボルド病院という空間そのものが、もしかすると、そういう「制度」から自由な世界で、さっきかいた理屈で、そういう状況では、不便なことや、どうすればいいか、あらかじめ「社会」が用意したマニュアルがつかえないことがきっとたくさんある。だけど、その分、たぶん、ひとは、普段、みえていない(理由がそうでなければどこにもない)ものを、ようやくみることができるのかもしれない。ややこしいいいかたになったが、要するに、ないことにされていたもの、あることを無視されていたものをみつける瞬間ということだろうか。
ここから、本来ならひとつひとつの写真に具体的に言及して、それらがどのように、いまかいたことを実現しているのかをいうべきところなのだが、それが、どうもできない。にげ口上のようになるが、そのようにすることで、ぼくは、これらの写真を、またことばのきまりとしくみのなかに回収してしまうようになることをおそれるからだ。そのかわり、どうしてもこの写真集をたくさんのひとがみればいいとおもう。そうすればわかるから、といいたい。
この写真集を、田村のほかの活動とあわせてかたることはできるかもしれないとおもう。田村は、もうながくピーター・ブルックの公演の写真をとっており、ブルック自身の日常のポートレイトをとることをゆるされる唯一の写真家である。彼女のほかの写真集には、『Voice』という、抽象性のたかい作品集、そして、『attitude』という、あるテレビ番組に順に出演した俳優たちのポートレイトをモノクロで撮影したものがある。このように、写真家としての田村の「位置づけ」のようなものは一見むずかしく、さきにかいたように、『ソローニュの森』はフォトジャーナリズム的なものではなく、『attitude』も、スターのポートレイト集ではない。しかし、ぼくは、これら、一見ジャンルをきめにくいほかの作品と、『ソローニュの森』にえがかれている世界に、矛盾をかんじない。いずれの作品にも、ここまでかいてきたような、「こぼれでるもの」の瞬間がとらえられている。それが精神病患者であろうが、有名な俳優や歌手、タレントであろうが、また、どことか、なに、ととらえにくい風景のぼやけたひとこまや、水面の反映であろうが、結局田村がさがしているものはおなじで、また田村がそれらをとらえるそのしかたも、当然のことながら共通の「かたりくち」によるものだとかんじている。そしてそれは、どのようなかたちをとっても、そういう感性によってこそ表現しうる、おなじうつくしさをもっている。
「瞬間をとらえる」というのは、写真を描写するときによくつかわれることばである。しかし、これは実は写真だけにかぎられたことではない。芸術作品は、すべて作家と対象がで、あるしかたでであう絶妙な瞬間のなせるわざではないかというのが、ぼくが最近おもうことで、田村の写真には、それが写真というメディアであるという以上に、瞬間をしずかにつかむかんじが、ほとばしっていると感じる(「しずかに…ほとばっている」はおかしいかもしれないが、本当にそういうかんじなのだ)。
湯川潮音のライブについてのブログで、ぼくは彼女のうたをききながら、おとがことばになり、ことばがおとになる瞬間にいあわせた、というようなことをながくかいた。うたや音楽は、音色やその高低、一音のながさ、おとのかさなりをさがしながら、これが(さがしていた)それ、というおとのながれをみつけ、そこにさらにことばをのせてゆくものである。そこには、バッハのように構築的につみあげてゆく場合もあるのかもしれないが、それ以上に重要なことは、「制度」や「約束」からどうふみだすかということである。そのふみだしかたがどれほど絶妙かということで、芸術作品のうつくしさは決定するのではないか。音楽がそうであれば、それは絵画や写真、ダンスや演劇でもきっとおなじことである。芸術家はしばしば、「なんどやってもうまくいかない」となげき、「あるとき、ふとした拍子に」とめをかがやかせる。なにがうまくいかないのか、なにがいったのかは、本人にしかわからず、われわれ鑑賞者は、できあがった作品のすばらしさを享受することしかできない。その「ふみだし」のステップのようなものが、ぼくがみた田村のすべての作品のなかに共鳴している。おなじリズム、おなじ和音がきこえてくる。そしてそれは、約束されたリズムや和音ではなく、田村が自分の表現手段として手にするカメラによってこそ、うまれくることができたものであるにちがいない。
attitude』のかずかずの著名人たちのポートレイトも、そういう瞬間をとらえ、人物たちのなんともいいがたい表情がひきだされている。それぞれ相当時間をかけたのかとたずねると、これは、あるテレビ番組の撮影のかたわらにおこなわれたものなので、そのあいまのほんの10分とかそういう時間にとったということだ。『Voice』についてはおおくをしらないが、この驚愕すべき作品のかずかずは、世界のありようが、芸術によってここまでの色調と振動をもってゆさぶられるのだということが、やはり田村のリズム、田村の和音でつむぎだされているげんばに、ページをめくるものはたちあうことになる。
このように、それぞれ、ちがうタイプの作品が、その温度をかんじとるように、よりそってみてゆくうちに、実は、おなじはだざわりのものであるのだということが、だんだんわかってくる。そして、表現者でないぼくは、そういう芸術者のもつにちがいない苦悩と祝祭の瞬間に、はげしく嫉妬しつつも、こころからのきもちで、それに感嘆し、称賛しないではいられない。
おなじ写真しかとれない写真家もいる。それはそれで、一貫性とよばれるし、このひとはこれしかできない、というのがよさ、ということもある。田村はそれをえらばなかった。「制度」のそとにふみだすこと、そのすきまからこぼれるもの・表情・風景をみのがなさないこと、それをやさしくだきとめること、そしてそれを印画紙のうえにえがきだし、とらえられた瞬間をしめすこと、それをみまもってゆきたいとおもうこと。