2013年8月15日木曜日

映画『ひろしま〜石内都・遺されたものたち』


遺品とはなにか、故人がのこしたものである。故人がのこしたものとはなにか、生前、故人に属していたものたちのことである。故人に属していたものたちとは、故人がきていた衣服その他の服飾品、故人がつかっていたメガネなどの道具類、故人が愛玩していた人形、その他。
なにか、そのひと用に、大なり小なり「カスタマイズ」されたものが「遺品」となるのではないか。その「カスタマイズ」はたとえば「あつらえた」ものがもっともわかりやすいけれど、そのひとが使用したり、みにつけたりするうちに、そのひとの、なんらかのそのひとらしさのようなものをまとったもの、それをしみこませたようなもの、そしてそれがそのものの「表情」としてあらわれるようなものを、ひとは「遺品」とおもうのだろう。パソコンよりは万年筆とか、炊飯器よりはおなべとか。
衣服は、その意味で、「遺品」のなかでももっとも「遺品的」なもので、この映画でも、石内都が撮影したものとして紹介される被爆者の遺品のおおくは、衣服だった。
「ヒロシマ」という現実は、「たくさんのひとびとのいのちをうばいました、そしてうばいつづけています」というものいいでは「マス」の現実ととらえられる。そして、おおくの大惨事は、当事者以外にはどうしてもそのようにとらえられがちである。東日本大震災を、福島を、それから2年半たったいま、ぼくたち非当事者のおおくは、やはりそのようにしかとらえることができない。ましてヒロシマからは、もう68年もたってしまったのだ。
石内が、この一連の作品でなにを意図していたかということにかかわらず、遺品を撮影することで、マスの現実をひとりひとりの、モノクロ写真ではなく、天然のいろをもった、しかもそれ以来ずっと継続する(いちども断絶していない)時間の延長上の現実(遺品もそこにいまあるものであるという意味で)が、そこにあるし、ぼくたちは、それをきちんととらえ、それになにかをかんじることができるのだというのが、この映画をみて、ぼくもふくめたおおくのひとがかんじることではないだろうか。映画の公式サイトにも監督(リンダ・ホーグランド)のコメントとしてあるように、だからといってこの映画は「啓蒙」のための映画ではない。ぼくがおもうに、あえて単純ないいかたをすれば、この映画は、「マス」を「個」にひきもどすための映画ではないだろうか。そしてそのために、石内都の、毎年広島にいっては遺品(いまも毎年原爆資料館に寄贈される遺品はふえつづけているということ)の写真をとりつづけるという活動をドキュメンタリーのかたちでつたえることが、そのとても有効な方法のひとつだったということ。
石内の展示作品では、ポスターやフライヤの写真にもなっている、くろいジョーゼットのワンピース、うつくしいはながらのワンピース、みずたまのブラウスなど、「戦時中」しかも終戦直前の「大変な時期」とはおもえないようなうつくしい衣服(もちろんその多くは被爆による損傷のあとをいろこくのこしている)の写真がめにつく。これらについて、作品中、収蔵された遺品を石内に提供するしごとにたずさわった学芸員のコメントでは、戦時中である以上、「華美」な服装はつつしまれ、おおくの女性はもんぺすがたで「臨戦状態」である社会にいきていた。しかし、そんな女性たちのなかには、その戦時生活の服装のしたに、ひっそりとそういう自分のよそおいをみにつけていたというのだ。
石内がかずかずの遺品のなかから選択して撮影したものが、もしびりびりにさけたもんぺや防空ずきんばかりだったとしたら、おそらくそれらの写真をみるぼくたちの意識は「マス」の現実からしたにおりてくることはないのかもしれない。戦争とは、まさに「個」が「マス」のなかにかきけされるものなのだ(そして国民服ももんぺも、まさにそれをひとびとにおもいこませるためのキャンペーンだった)という事実から、ぼくたちは一歩もふみだすことなくとどまって、「たくさんのひとびと」の惨禍にかたをおとすことしかしないのかもしれない。
もんぺのしたにうつくしいよそおいをかくしていた広島の女性たちは、その「よそおい」のメッセージを、いったいだれにむかって、なににむかって発していたのだろう。これは、たとえば、よくしられるように、淡谷のり子が慰問演奏でもんぺを拒否してステージ衣装をまとったという事実とは性質の異なることである。戦時体制へのひそかな抵抗とおもうひともいたかもしれないが、それ以上に、かんがえればあまりにもあたりまえのことなのだが、そういう時期であっても、「個」としての人間は、どこにもかききえていないのだということを、「表現」したのではなく、そういうあたりまえのことを、ただいきていたのだということ。だから、これはメッセージではない、そういう時間がきちんとながれていたのだということを、ぼくたちがおもいだし、おもいしらなければいけないのだということ。それだけ。
遺品は、そのひと用に「カスタマイズ」されたものであると最初にかいた。「カスタマイズ」とは、ひとが他人ではなくほかでもない自分であるということを認識するためのいとなみである。衣服は、したがって「自己表現」のようになにかおおげさなものなのではなく、「ほかでもない自分」を意識するもっとも端的な手段ということだ。そしてそれはしばしばとてもうつくしいいとなみである。石内は「うつくしいとおもうものを普通にとっているだけなんです」と、うそぶきともおもいかねないことをいっている。当然だが、被爆がうつくしいといっているのではない。「ヒロシマ」という惨禍のなかでも、ひとは「ひとびと」ではなく、「ひとりひとり」としてうつくしくあったのであるということをファインダーごしに遺品とかたらいながら、そのありさまをフィルムにやきつけたということ(この映画にみるかぎり、石内はフィルムカメラを使用していた)。
この映画は、石内のこれらの作品の展覧会がはじめて北米でもよおされたときのようすを中心にとられたものである。北米といっても合衆国ではなく、カナダの先住民に関する人類学博物館で開催された企画展だった。そこで、その展覧会にかかわったカナダの歴史学者が、石内にかたりかける。「カナダは核をもたない平和主義のくにといわれていますが、それはうそです。戦時中カナダはアメリカの要請でマンハッタン計画に参加し、国内でウランの採掘をおこなってアメリカに提供しました。そして、この博物館にその伝統文化が展示されている先住民のひとたちが採掘工事にかりだされました。広島・長崎の原爆投下後、先住民のひとたちはその事実をしり、自分たちの採掘したウランによってたくさんのひとのいのちがうばわれたことをしり、その事実をみとめて謝罪したのです。アメリカも、カナダもあやまっていないけれど、このひとたちはあやまった」こんなようなこと。
ぼくたちはおおむかし、ちいさな共同体でいきていたころから、社会や文明を発展させ、グローバル化とまでいわれる世界のネットワークを構築してきた、構築してしまった。でも、ぼくたちにはそのおおきな規模の共同体をきりもりし、そうやってつながりあった世界のあちらとこちらで、ひとがなにをおもい、なにをし、あるいは自分がしていることがなにを世界にもたらすかなどをきちんと想像できるようなちからをもちあわせていないし、このさきももちあわせることができるのかはわからない。それなのに、ぼくたちは世界をひろげることをやめないし、ひろげなくてはどうしようもない世界にしてしまった。「個」の存在にどのぐらいおもいをはせることができるか、それができなければ、ぼくたちはほんとうはなにをする資格もないのだ。それなのにである。
この映画は、「戦争はいけない」をうったえる啓蒙映画ではたしかにない。石内の作品はすべてうつくしく、「わたしはみずたまがすきだからこの写真がいちばんすき」と無邪気にわらうわかい鑑賞者の視点をもかくそうとしていない。しかし、そのいっぽうで、この映画は、そこ(ヒロシマ)にいたひとたちのひとりひとりが、当然のことながらそれぞれ「個」の存在であったことをいやがおうでもぼくたちに認識しなおさせるものである。そして、そのひとたちひとりひとりの遺品は、「犠牲」というものがいかなる意味でもあってはならないものだということをかたるものでもある。被爆者も、被災者も、すべての「犠牲者」は、そういうめにあってしまった例外的なひとたちの集団(事後的にそうなっただけなのに、なぜかぼくたちはそれをそうとらえることができない)ではなく、おなじひとりびとりであり、そうである以上、つまり、あなたがなにかの犠牲になるすじあいがないのとまったくおなじ意味で、だれもそうならなければいけないひとなどいないのだという、小学生でもわかるあたりまえのこと。「個人」という概念がわからなくてもわかること。
大震災と福島というまだまだ直近としかいいようのないもっとちかくの惨禍でさえも、ぼくたちはそこにいるひとりひとりを、わすれているつもりはないけれど、うまく想像できなくなる。そのぐらいぼくたちはいそがしい。いそがしくさせらている。芸術は、そういうぼくたちを、たいせつなもののちかくにそっとひきもどしてくれるちからをもつことがある。そして芸術がしてくれることはそこまででもある。そこから、について、かんがえてみようとおもう。

(写真はこちらからいただきました:http://www.thethirdgalleryaya.com/exhibitions/2010/10/six.php)