2014年8月19日火曜日

芸術の無邪気


ノルマンディの友人をたずねるべく、パリ、サン=ラザールえきで、列車をまっていた。すこしはなれたところから、はげしいタッチのピアノの演奏がきこえてきた。喧騒もあってよくきこえていなかったのだが、もしかしたら、セシル・テイラーばりのフリージャズ?こどもがあそんでいるわりにはちからがありすぎるねいろ、などとおもいながらちかづいてみると、「どうぞ、ひいてください」と、1台のアップライト・ピアノが設置してある一角があり、いわゆる、ホームレス風のおじさんが、たのしそうに、けんばんをたたきまくっていた(ちなみに、写真はセシル・テイラーさま、でもまあこんな感じ)。
そういうことね、とおもいながら、それでもおもしろくて、しばらくちかくできいていたのだが、そのひきっぷりは、それでもときどき、やっぱりなんかすごい、ただめちゃくちゃじゃない感じ、わるくないテンション、と、結構真剣にききいってしまった。と、おもっていたら、えきの保安員が3人づれで、ゆっくりとかれのほうにちかづき、要するに、ただめちゃくちゃひくのはやめてください的なことをいっているのかとおもったら、セシル・テイラーは、さっさと演奏をやめ、「わかったよ、やめるから」とでもいいながらだろうか、すこし距離があったのできこえなかったが、さっさとたちさってしまった。
よくかんがえてみなくても、おじさんがセシル・テイラーかどうかはどうでもいいことだった。そして、だれも苦情をいったわけでもなさそうだった。そして、現にぼくはかれの演奏をたのしんでいた。
これは 「わいせつ」のはなし とおなじだ、と気づいた。ちゃんとした「楽曲」を「演奏」していなかったので、おじさんは、やめさせられた。でもたぶん、あのおじさんが、ほんもののセシル・テイラーでも、もしかしたら、もっとうるさいだろうし、やっぱりやめさせられたかもしれない。
芸術は、だれに気にいられれば芸術なのか、だれの気にさわれば排除されるのか。
おじさんは、先述のように、まったく「抵抗」しなかった。社会のなかでの自分のたち位置のよわさを、もうすでに、いたいほどわかっているというふうだった。
あ、ぼくはなにもしなかった。「え、たのしくきいてたんですけど」とかけよるべきだったのだろうか。
あるいは、それがこどもだったら?許容されるとしたらなぜ?
でも、芸術には、大なり小なり「こども」みたいなところがある。楽器をひきならすことや、うたったり、おどったりすることは、こどものような無邪気さが必要。
社会が要求する、「おとな」の「わくぐみ」にはめこまれることに、ぼくたちはたいてい、合意し、すすんでそれに支配され、おなじことを他人にも要求する。フランスはそれが日本よりずっとゆるい。ひとりで、おおごえでうたをうたいながらあるいてるひととか、キックボードで快走している中年のおじさんが、普通にいる。それでも、こういうことがおこる。
アーティストのみなさん、ふだん、ちょっとかわってるねといわれるみなさん、まけずに、そのまま、この無言の窮屈さからぼくたちを解放してください。「普通」がいいとおもっているみなさん、それでもいいから、でもそれを他人にもおなじようにもとめないでください。わざわざぼくたち一般人が、おたがいをみはりあっているような空気をつくらなくてもいい。
列車にのりこんだ。ひさびさに、セシル・テイラーをききながら、窓外のけしきをたのしむことにしよう。

2014年8月8日金曜日

ことばの死:安部首相は広島を適当にかたづけた


このことについて、世田谷区議上川あや氏のツイートにおおきな反響があり、マスコミもそれをとりあげている。とりわけ、ハフ・ポストの分析はこまかい。
安倍は、内閣総理大臣として原爆記念の日に広島におもむき、平和記念式典であいさつし、その内容のベースが、昨年のもののつかいまわしであった(ハフ・ポストの上記分析をみればそこに議論の余地はない)。
社会人をやっていると、いろいろむだな文書を作成しなければならないこともあり、あ、これだったら、去年つくったものをバージョン・アップして、適当に、にくづけすればいいか、とやっつけてしまうことはたしかにある。ほめられたことではないが、そのような文書をつくらされることにたいする内心の抗議のきもちから、これで十分ですよ、どこがわるいんですか、といったきもちでそうすることもあるだろう。
社会人をやっているとそういうこともあるが、それは、かならずしもしごとをサボるためではなく、そういうものを適当にかたづけ、より重要な業務に十分な時間をさくことで、しごとの効率をあげるためである。そのぐらい、なぜだかわからないがぼくたちはいそがしい。
安倍が広島でやったこともこれとおなじことである。安倍は総理大臣なので、まちがいなくとてもいそがしい。いそがしいので、広島は適当にかたづけて、かれにとってのより重要な業務にきっと時間をさいたのだ。安倍は、広島を適当にかたづけた、これをどう評価するかということだ。
安倍はもとより言論を軽視している政治家であることは、ぼくにかぎらずおおくのひとがいっていること。自分がきめたいことを十分な議論もないままに決定し、あとで「もっと丁寧に説明すべきだった」、だったらなぜ、というはなし。また、ぼく自身も、かれの「積極的平和主義」というなぞの用語や、「原発はベースロード電源」といったごまかしのものいいについてこのブログにかいた(前者について、その後、平和学の専門家であり、ガルトゥングの訳者でもある奥本京子氏が、ぼくと同趣旨の、かつ百倍しっかりとした学術的根拠にもとづく発言をされていることをよろこびとともにしった。フェイスブック加入者には、このリンクでその文面が公開されている)。
安倍の言論は、このようにごまかしと不備にみちている。言語をばかにするな、とおもっていたら、この事件で、安倍からはもはや、原爆記念の日の広島においてさえ、いきた人間のことばがでてこないのだということをおもいしらされた。ぼくたち国民は、なぜ安倍が、ぼくたちの税金をつかって、わざわざ広島にいって式典であいさつすることをよしとするのか。国の政治・行政の代表者が、その日に、そのばで、肉声で、そのときのさまざまな状況をふまえて、ましてその特権的な、無数の国民がみみをかたむけるその空間で、血のかよったことばで、平和と核兵器の廃絶をうったえることをまちのぞんでいるからである。きょうの安倍は1年まえの安倍とおなじではないし、おなじであってはいけない。きょう、いま、平和と核廃絶のために、内閣総理大臣がなにをかんがえ、なにをことばにするのかをぼくたちはしりたかった。はじめからおわりまで、きょうの、かれのことばできけるとおもっていた。それを、かれはまた愚弄した。「ことしもまた広島のあれか、去年のやつの、今年ように適当になおしといてくれる?それでいいでしょ、いそがしいし」こんなことばがきこえてくる。
「積極的平和主義」についてのブログにかいたように、安倍は「平和」の語の意味を理解していない。安倍には、「平和」とはなにかが理解できない。そんなひとだから、今回の事件にぼくはあまりおどろかなかった。そして正直、まえの段落にかいたような、かれのことばへの期待など、うしないきっていた。でも、ここまでやるとおもわなかった。ことばがおかしい、まやかしにみちているだけではない、もうかれのことばは死んでいる。あやまってほしい。そうでなければ退場してほしい。 

2014年7月15日火曜日

「ろくでなし子」逮捕:3. 「感動大作」とポルノは一字ちがい


『世界の中心で愛を叫ぶ』ぐらいから、つまり、世紀のかわりめぐらいから、大衆芸術の世界では、「なける」ことがその芸術的価値判断の基準でとても重要な位置をしめるようになった。きちんと社会学的な調査をだれかにしてほしいものだが、映画や小説の広告などに、「なみだがとまらない」「こんなにないたのは」と、とにかく「なける」作品であることが喧伝され、それを鑑賞したものがまた「めっちゃないた」とはやしたてる。そして「めっちゃないた」ことがイコールその作品の価値であるようないいかたをしてはばからない言説がはびこることになる。芸術でなくことはぼくもしょっちゅうあるけれど、ないてしまったからといって、それがかならずしもすばらしい作品だということにはならない。ただ、なくことは、きもちのいいことだ。それだけ感情移入できて、なんだかもとをとったようなきもちになる。そしてそれに「感動」という形容があたえられて、ふだんくやしかったりかなりかったりしてないたときとは別の価値があたえられる。「感動」ということばは、いつのまにかとてもやすっぽいことばになってしまった。
だが、「なく」ことは、感情をおさえられずにもらしてしまうことにほからない。そしてそれがきもちいいから、いい映画をみた、いい本をよんだというきもちになるが、ふりかえってみると、作品そのものは実はたいしたことないというばあいもすくなくない。あとでふりかえると、ちょっとあざとかったよなとか。それもふくめて「なける」=よい作品というのは、はやとちりだし、これだけ「なける」がうりものにされると、芸術の価値について、むしろまちがいをみちびくものになりかねない。「感動大作」も商品である以上、そこに、つまり「なける」ことに目的をしぼった作品が量産される可能性もある。そうなると、これはほとんどポルノとおなじだということ。大変下品なことばあそびで恐縮だが、「なける」の「な」を「ぬ」にかえれば(男子限定になるが)、そこでおこっている/ひきおこされることはまったくおなじ。「ぬ」に目的をしぼった作品が男性むけポルノで、「な」が、俗悪な「感動大作」ということ。
もちろん、だからといって俗悪な「感動大作」があってはいけないということではない。ただ、それは芸術とはいえない。芸術と娯楽のちがいはなにかという、これはまたおおきな議論になってしまうが、もうすこし冷静に区別してもいいのかもしれない。「感動大作」は、しばしば芸術性もたかいとかんちがいされてしまうが、実際には逆であるということ(注意:もちろん「なける」映画がすべて娯楽作品であるというのではない。乱暴な一般化をしているからこそ「」のなかにいれて論じている)、そこだけは注意する必要がある。
インテリが、「感動大作」をゴミだといって排除しても、それをつくった監督や作者をつかまえて刑務所にいれるということにはならない。それがたとえ「なける」ことだけに目的をしぼった浅薄な作品だったとしても。これは納得できる。ところが、「わいせつ」は、「な」が「ぬ」にかわっただけなのに、インテリのみならず、すべてのひとがその存在自体を基本的に軽蔑する(もちろん、そこには、さきにのべたように、そこに付随する暴力・虐待にくわえて、そういう付随物がなくてもポルノ自体が女性蔑視であるかというおおきな問題がある。だからこそ、いまここでは、ポルノ全体を射程にいれた議論はできない)。そして、ちょっとしたことで逮捕されるということにもなってしまう。
ここでもういちど、ろくでなし子にもどってくる。「芸術です」と作者がうったえれば、乱暴に刑務所にいれるまえにはなしをきかなければいけない。「な/ぬける」だけのゴミのような「感動大作」とポルノがこれだけ蔓延している世界で、性器の表象を禁じる(くせにそれがだいすきな)おじさんたちの偏執を、 自身の性器の「プリント」によって告発する芸術家を、なぜここまで簡単に逮捕し、きずつけることができてしまうのか。そこには犯罪性、暴力性のかけらもないどころか、女性蔑視にたいするカウンター行動のひとつとして解釈することさえ可能である。
「わいせつ」はおそらくぼくたちのなかにたしかに存在する。けれどこれは警察に判断できることではない。だから刑事てつづきでこれを判断することはできない。もし判断が必要であれば、すでにのべたように、専門家を複数まじえた議論のばがどうしても必要である。そのプロセスなしでいけるのは、事件に犯罪性や人権侵害が付随しているばあいにかぎるべきである。こうしたことをきちんと判断するのは容易ではないが、そのちからを、それでもぼくたちの社会は獲得しなければならない。警察や国家が、一元的な判断主体になってしまえるような社会はおそろしい。そうでないと、表現者ばかりが今後もきずつきつづけ、自由な表現が破壊されつづけることになるだろう。また、あらゆる判断の主体が市民自身であることによってのみ、成熟した文化的な社会が期待できる。今回あつかった問題以外もふくめ、そちらにむかおうとしない現実を、おおいに憂慮する。と同時に、警察以上に、上記のような報道を安易にしてしまったマスコミを断罪する必要がある。


「ろくでなし子」逮捕 :2. 「わいせつ」それ自体は犯罪ではありえない

ろくでなし子そのものについては以上だが、この機会に「わいせつ」についてもうすこしのべておきたい。わいせつなものは、たしかに存在するとおもう。個人的な感情のレベルで、これは、ただそれだけのためね、とおもえるものがそれにあたる。しかし、わいせつな表現の媒体は、写真、印刷物、映像、絵画、演劇、パフォーマンスなど、芸術がもちいるメディアに完全にかさなる。「わいせつ」は、なんらかの表象についてくだされる評価なので、当然といえば当然なのだけど。かさなってしまうので、芸術表現の一環としてそれをやっていても、それ「わいせつ」と嫌疑をかけられてしまい、今回のようなことになる。ぼくたちがこれにたいしてできることはひとつしかない。年少者への性的虐待や、強制された暴力性、売春などの別の犯罪性がみえるばあいは別として、i)「わいせつ」かどうかを、まず警察が判断してとりしまるということをしない(刑法改正)。そして、ii)「わいせつ」といわれても、「いえ、これは芸術なんです」と当事者がこたえたら、その「わいせつ」ポイント以外に犯罪性がとえないことがあきらかなばあい、当事者と専門家をまじえた議論によって解決する(できないばあいには民事法廷で)。
「わいせつ」は、なんどもかいているように個人的な問題なので、だれもそうおもわなければ存在しない。よく、ある対象について性的な連想をしてしまい、それをはなすと「そんなふうにいうのおまえだけだぞ、いやらしいな」というばめんがある。警察がそうおもったのなら「わいせつ」というのは自由だが、だからといってすぐに逮捕とかではなく、みんなにきいてみる。きいてみて、だれも「わいせつ」といわなければ、警察がいちばんわいせつだということになり、ごめん、ぼくだけでしたととりさげていただく。また、「わいせつ」の犯罪性は、もちろんものにもよるが、すくなくとも、にせ札のように、その存在自体が健全な貨幣経済を直接おびやかすおそれのあるものとはならない。だからこそ、ポルノは一定のわく内でこのくにでもみとめられている(もちろんポルノ自体の是非をとう別の議論は可能だ)。さきにちらっと言及した幼児虐待や暴力性、売春などは、そもそも「わいせつ」に付随しておこる「別件」であり、「わいせつ」そのものは、刑事的なものではありえない。たとえばスポーツ新聞のエッチ・ページをこれみよがすのが「わいせつ」で我慢がならないので、条例で禁止してもらうとか、風俗店の看板が通学路にあるのでどけてくださいとか、そういう次元のこと。
「わいせつ」を犯罪と即断してしまうことは、それによって確保されるかもしれない社会的正義よりも、今回のような表現の自由をあきらかに侵害してしまうばあいがおおいのではないかとおもう。そして、このような「とりしまり」が常態化することで、これは「わいせつ」云々だけではなく、警察国家を招来させるものにもなりかねない。そのへんの懸念もおおいにある。
「わいせつ」は、個人のなかにおこる、「うわ、やらし〜」という感情・欲望レベルのことで、さきにのべた表現媒体が共通することにくわえて、そもそもが個人の感情や欲望におおいにうったえることがその本質のひとつである芸術表現とのかさなりがどうしても問題になってしまう。だから、警察が簡単に規制できるものではないし、それをするなら、芸術を愛するものとしては、もっとほかにも規制してもいいのではないかとさえおもってしまうことがある。最後にそのはなし。

「ろくでなし子」逮捕 :1. 「千円札裁判」にまなべ

もうかれこれ50年ほどまえのことだが、「千円札裁判」というものがあり、「芸術とはなにか」という問題が司法の現場で議論される一大イベントになった。発端は、赤瀬川源平が制作した当時の千円札を模した作品が、「通貨及証券模造取締法」違反にあたるかどうかということをめぐり、「事件性よりも法の場において芸術をめぐる言説空間が膨れ上がった」(成相肇)。ぼく自身はこのようすを赤瀬川の著作でかつてよみ、おおいに興奮したが、「「千円札の模型」が芸術だという理解がない裁判官に向けてアピールするため、高松次郎、中西夏之らが弁護人として「ハイレッド・センター」の活動について法廷で説明し、当時における「前衛芸術」の状況について説明した。また、他の関係者の「前衛芸術」作品も裁判所内で多数陳列され、裁判所が美術館と化した」(ウィキペディア)。
昨日、漫画家・アーティストの、ろくでなし子が、自分の性器の3Dデータを頒布した嫌疑で逮捕された。刑法の「わいせつ物頒布等の罪」の違反にあたるということが推察される。メディアは、逮捕の時点で、彼女があたかも犯罪者であるかのように、「自称芸術家の○○歳のおんな」(フジテレビ「スーパーニュース」:実際には実年齢が明言されている)などと彼女について言及し、「自称」とする時点で、ろくでなし子のアーティストとしてのアイデンティティを否定してはばからない(ちなみに、ぼくが確認したかぎり、日本の英語メディアでは、おなじ新聞社のものでも、「自称」にあたる表現はなく、単にartistとされているものばかりだった。ダブルスタンダード)。
ちなみに、ウィキペディア(上記リンク)によると、上記の「千円札裁判」においても、あの赤瀬川が「同 (1964) 127日に、“自称・前衛芸術家、赤瀬川原平”が「チ37号事件」【当時話題になっていた別のニセ札事件】につながる悪質な容疑者であると、朝日新聞に誇大に報道され」たそうである。日本のマスコミは、すくなくとも50年まえからまったくかわっていない。
今回の事件にあたり、まず、当事者である、ろくでなし子氏が即時釈放され、起訴されたとしても、こうした当局の抑圧にまけることなく、きちんと司法でたたかっていただくことを希望する。「千円札裁判」の例がしめすように、判決のいかんにかかわらず、このようなかたちで、法のばにおいて芸術をめぐる言説空間が展開することはひとつのチャンスととらえることもできる(※このことに関連して、彼女の今回の行為を確信犯とするかきこみなどもみたが、これについてはどちらでもいいとおもう。確信犯なら、彼女自身があまりきずついていない分、むしろよかったというべき。ただし、とりしらべ中にまちがいなく彼女にむかって展開されるセクハラ的言説を想像するとこころがいたむ)。
メディアは50年間かわっていないとさきにのべたが、時代はそれでもすこしはかわっている。フェイスブックもツイッターもある。安保闘争以来とだえていた「動員」も、震災とファシスト政権の横暴の「おかげ」で再活性化しているのだ。なにかおもしろいことができるかもしれない、とおもいたい。千円札裁判のときには、裁判所に「これも芸術です」と、からだじゅうに洗濯バサミをつけまくった中西夏之が「証人」として登場するなどといったことがあったという。今回は、「偽造」か「芸術」かではなく、「わいせつ」か「芸術」かが問題である。ツイッターなどでよびかけて、世界中から性をテーマに活動するアーティストが証人としてあつまった法廷は、壮観であるにちがいない。特別にユースト配信なども許可してくれたりしたらもっといい(無理か)。ぜひひとにぎわいさせてほしい。そして、フジテレビをはじめ「自称芸術家の○○歳のおんな」といったいいかたで、彼女の本名と年齢を開示し嘲弄したメディア各局には、名誉毀損のつみをとい、芸術のなんたるかをまったく理解していない(というか判断していない)、まさしく「マスゴミ」でしたすみませんと公式に謝罪させる必要がある。そのぐらいぼくはおこっている。

2014年7月1日火曜日

「なまの世界」をしりえぬひとたち

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ぼくたちは、もうほとんど直接なにかをすることがない。それはしかたない。くつをはいたから、はだしであるくとけがをするようになってしまった。そういうことがかさなって、ぼくたちはいま、「なまの世界」(というものが想定できるとして)からはとてもとおい、間接的なところでくらしている。にくをたべるが、動物をしめころしたことがない。無人機をあやつって爆弾をおとしたことはあるが、つるぎをもってひとにおそいかかったことがない。

文明の「たかさ」は、たぶん、ぼくたちが「なまの世界」からどのぐらいとおくの、「たかい」ところまできたかということではかられるのかもしれない。

そして、たかいところへいけばいくほど、したでおこっていることがわからなくなる。政治の世界のマジョリティのひとたちはみな、社会のなかでもっとも「たかい」ところにいるひとたち、つまり、「なまの世界」からいちばんとおくの住人です。

いまも失言のおおいかつての総理大臣が、カップラーメンの値段もろくにしらなかったことで批判されたことがあった。そんなことは全然たいしたことない。問題は、首相や閣僚も、だれも原発の近所にすんでいないし、これからもすむことはなく、自衛隊が武力行使をするからといって、その部隊に参加することも(自衛隊員ではないので当然だけど)、まして前線にたつことなど絶対にないということ。

いたいし、こわいからいやなのだ、基本ぼくらは。それでも必要なものというのがあるのだ、というのなら、再稼働する原発周辺地区に首相官邸や再稼働推進派ご一行さまのニュータウンをおけないといけない。「そんな危険なことを」といまいいませんでしたか。まさか。原発は「安全が確認できたら再稼働する」のですよね。「安全」とは、有事の際に付近住民に被災者がでないことである。「すこしでるかもしれないが」ということは、民主国家ではゆるされない(これは説明しない)。被災者はでないはずだ、だから再稼働を推進し、その政策をすすめる首相は、そこにすめなければならない。そんなことをして「首相にもしものことがあったら」とだれかひとりでもいうひとがいたら、それは即刻問題発言になる。ほかのひとだったらいいのですか。いのちを天秤にかけていませんか。めっそうもない?それならすんでください、だから、あなたがあそこのすぐよこに。

武力行使もおなじだ。みみにあたらしい自民党の野田聖子のすこしまえの発言:「集団的自衛権が行使できる、武力行使ができるとなれば自衛隊は軍になる。軍隊は殺すことも殺されることもある。いまの日本に、どれだけそこに若者を行かせられるのでしょう」野田氏は行使そのものに反対しているわけではないとはいえ、この点についてはもっともである。にもかかわらず、以降も「ころす」「ころされる」ことを意識した議論が、結局なにもなされなかった。

武力行使になったら、安倍さんにもいってもらいましょう。いや、そんなことをいうのはやぶへびで、結構かれは気のりされるかもしれない。迷彩服とかきてよろこぶぐらいだから。いやいや安倍さん、指令隊長とかじゃないですよ。「前線」です「前線」。あなたがきめたことで、ここにたってドンパチやるひとがいるということです。いままでいなかったのに。それ、自分にはできないとゆってはだめですよ。ということで、集団的自衛権行使の記念すべき第1回では、安倍さんに前線にいっていただく。それができ(そうに)なければ、やってはいけない。「なまの世界」の当事者になる気がはなからないのだったら、そんなたかいところからいうのは、もうやめてほしいのです。いや、ほんとうにいい迷惑。

これは安倍さんには直接関係ないけれど、死刑制度もおなじです。森巣博がおなじようなことをいっていたけれど、死刑制度を支持するひとは、全員「裁判員制度」とおなじように「死刑執行員制度」の名簿に登録され、順番に執行にたちあわなければいけないことにする。これは全然過激なことではありません。過激なのは、この制度を支持することのほうです。自分では手をよごしたくないのに、この、いきている資格のないひとをころせということにまさるハイパー・ブルジョワジーはありうるでしょうか。

間接的な生をやめるのはそれでもむずかしい。でも、屠殺をみたことないけどパックのおにくをたべる、ぐらいのアマチュアの間接ライフをゆるしてもらうかわりに、人間のいのちがかかわる間接性からは、ぬけでないといけない。そうじゃないとずるいということになる。ひとがしぬかもしれない(原発・戦争)、ほんとにしぬ(死刑)ということがかかわることを支持するためには、それを直接の世界、「なまの世界」でひきうける覚悟がないといけない。そして、ほんとはもちろん、そんな覚悟をつける必要はまったくないのです。安倍さん以外は。

2014年5月29日木曜日

ツァイ・ミンリャン『効遊 Stray Dogs』(2013年)


※この映画は、日本のある映画祭で昨年『ピクニック』というタイトルで上映されました。配給がきまってこの秋に正式に上映されるようですが、そちらのタイトルがいまのところわかっていません。上記は中国語原題と英語のタイトルを併記しました。
映画的なきまりや約束ごとを解体する、というこころみはいままでいろいろあったとおもう。たくさん映画をみたわけではないけれど、ああ、そういうことをしているのだなという映画はいくつもみたことがある気がする。
だけど、この映画では、そういう映画的なきまりや約束ごとが解体されているのではなく、そういうすべてのものから「解放」されているのだとおもった。
かれのどの映画をみても、そこには、映像に意味があたえられ、それがものがたりになるプロセスが、かれだけのもつかたりくちとしてしぼりだされている。ぼくたちは、はじめ、そのあまりにもながいカット、そしてそのなかでの「なにもおこらなさ」のようなものに、もちろんとまどう。しかし、とまどっているうちに、同時にすこしずつ、その独特の時間のながれ、映像の進行の話法のようなもの、画面のなかにふうじこめられる、あるいは画面から解放される空間が、こちらのからだにもしみこんくるのをかんじることができる。「映画的な時間」ではなく、「ツァイ・ミンリャンの映画の時間」のなかでひろがる空間が、そこでもっていた緊張感そのものが、じわりじわりとからだに浸透するかんじ。この「浸透」のかんじは、この映画でも、ツァイ・ミンリャンのほかの映画同様に、随所で「みず」が重要な要素としてかかわることと無関係ではないともおもう。
そのためにかれがなにをどうしているのかは、いまちょっとおもいついてかいた、みずの効果ということ以外はよくわからない。いや、わかるのだけれど、それをどうしてもかけない、しかし、そういうものがかれの映画のなかにはあるのだ。そして、この作品は、まちがいなく、そのひとつの頂点になったもの(これがかれの最後の長編映画になるそうです)。
ひとつだけ具体的なこと。終盤のシーンで、ふたりの人物のむねうえぐらいのアップの映像で、カメラは完全に固定の、ながまわしで、たぶん15分とか(もっとだったかも)そのぐらいのカットがある。そのあいだ、登場人物のひとりは、あるものに目をうばわれているのだが、そのながい時間のあいだに、彼女のきもちが変化し、感情がたかぶり、そしてある瞬間にいよいよ彼女の目からなみだがながれはじめる。そしてひとしきりのなみだがながれおわっても、カメラは依然としてそのまま、そしてそのうちに、彼女のなみだはかわき、ほほにそのあとがのこる。そしてというところまでを、ようするにぼくたちは、その映画の撮影とまったくおなじ時間のながれのなかで体験することになる。せりふも、音楽もなく、人物もほとんどうごかない(すごくない?それで「みせられる」のだから)。ときおり、背景のくらやみを電車が通過する、それが何度も通過することによって、ぼくたちは、あ、またつぎの電車がきたと、時間がながれていることをなんとか感得することができる。こんなおもいを、ぼくたちはたとえば日常でなにかをまっているときなどに体験することはあるが、映画のなかでは、普通ならそんな「ひま」はないはずだ。
また、このようなカットがとれるとは、このような要求を演技者がみたしているということでもある。この超ながまわしのなかで、感情をたかぶらせ、なみだをながし、かれるまでの時間をぼくたち観客に共有させてくれるのは、ツァイ・ミンリャン映画ではおなじみのチェン・シアンチーだが、これに相当する、ながいカットのなかでの、せりふによらない感情のものがたりは、主演のリー・カンションによっても随所でみごとに演じられており、むしろいま紹介したカットは、その変奏、もしくはクライマックスといってもよいかもしれない。
リー・カンションの演技としては、「キャベツ」をめぐる壮絶なシーンがある。でもこれをかたることは、この映画をこれからみるひとにはあまりにももったいないので、この映画が日本でも公開されてから、この映画についてもっとかけそうだとおもったらかくことにする。
緊張感、リアリズム、といったどんなことばも、そこではものたりなすぎてつかえない、そんな時間と空間を、それでもこころがどろどろになるぐらいのうつくしさでえがきだす映画作家、それがツァイ・ミンリャン。映画というものにもともとなにかきまりや約束があり、それをふりだしにもどしているのです、というてらいのようなものは一切かんじられない。そんなものは自分にはもともと関係なかった、わたしがあなたにとどけたいものが、このようなかたちをしているだけなのことなのです、といっているようだ。
ツァイ・ミンリャンの映画をみていると、ぼくはときどき、しばし目をとじていたいとおもうことがある。 まえにもかいたけれど 、目をとじて、またあけても、ぼくたちは映画においてきぼりにされることはない。ほんとうの生のなかで、ぼくたちがまどろむときとおなじように、もちろん、そのあいだみえるはずだったものをみのがしたにもかかわらず、ぼくたちは、それでもその映画のながれをのりすごしてしまうことも、そこにのりおくれてしまうこともない。そんな時間と空間を映画館のなかにつくりだすことができる作家である。かならず映画館でみてほしい。
そして、この映画をみおわったあとに、ぼくたちは、映画館をでて、現実の時間のながれにもどるわけだが、そこでぼくたちは逆に、自分が、映画などよりよっぽどきゅうくつな時間と空間のきまりや約束ごとのなかにいることに気づかされることになる。いったい「いきている」とはどういうことか、意味をつみあげて、なにかものがたりをつくりあげながら「人生の意味」をみいだすぼくたちのなかにながれる時間は、ぼくたちのからだのなかをながれる血や心臓の鼓動から、もうずいぶんとおいところにいってしまっている。ぼくたちのめのまえにあらわれたもの(いろいろなものすべて、ことば、映像、風景、おと、表情、うごきなど、それをとおしてぼくたちがなにかをよみとるすべてのものごと)から、なにかをよみとるための、ほんとうはとてもながいプロセスが、のこらずとても短縮されて、とてもみじかい解釈のプロセス、バーコードをよみとるように、ぼくたちはめのまえをすぎゆくもの、みみをろうするいろいろなおとの情報をみぎからひだりへと処理してゆく。そして、処理できないものに、あれ、と注意をむけるのではなく、そういうものを、ただ無視しつづけている、そんなことに気づく。「デジタル」の、きっとほんとうの意味、ぼくたちが獲得したもの、ぼくたちが喪失したもの。何千万画素になってもうつらないもの、みえないもの。
この作品は、だから、最初にかいたように、単に映画的なきまりや約束ごとからの解放だけではなく、ぼくたちが、自分でとじこもってしまった意味やものがたりの牢獄から、ぼくたちを解放するほどのちからさえもったものだ。ひとのこころのさびしさ、喪失のくるしみ、いきる意味、ながれ、そう、「なになにの」がつかない、主語を必要としない「ながれ」の感触・感覚、そんなものが、よいしれるようなうつくしい映像(そしてひかり)と、するどく、やさしい音声の効果のなかに、強烈に、鮮烈に、そして沈静に、寡黙にえがきだされた映画。こやくもふくめて、すべての人物の演技の珠玉。
電車のなかで、スマートフォンをみるのをやめて、もういちど、まどのそとの風景にめをやってください。できあいの意味はそこには全然ないけれど、とおくにあるものにちかづいて、意味をあたえ、ものがたりをつくる、というなつかしく、あたらしいそのいとなみを、もういちど再開できるかもしれない。いつからか「妄想」と揶揄するようにいわれるようになった、ぼくたちの想像力をきっととりかえすこと。いまからでもまにあうとおもう。こんなすばらしい映画が21世紀がはじまってもう10年以上たったいまでも可能であるのだから。
だれかの表情がゆれはじめ、なみだがこぼれ、さめざめとした時間のあと、それがかわき、かなしいめにふちどられた表情だけがのこるまでの時間、そのだれかのかおを至近距離でみつめつづけたことがありますか。それができるだけでも、こんな極上の映像体験はないとおもう。そしてみおわったら、すきなもの、あいするもののちかくにいって、おなじように、きっととてもながい時間そのかたわらで、それをみつめてみてほしい。ひとでも、ものでも、動物でもいい、ああもちろん、想像上のものでもいい。いきていることの意味とか、ものがたりは、そういうところからしかはじまらない。そのことをどうしてもおもいだしてほしい、おもいだせる。
この映画の、もっと具体的な紹介をふくめた文章としては、こちらのブログがすぐれているとおもいました。
また、この映画についての監督のインタビューがこちらにあります。とてもよいインタビューだとおもいました。
ぼくのブログはこれらをよむまえにかいたので、ああそういうことなら、とかきなおしたくなったところもあるけれど、このままにしたいとおもいます。
最後に、もう映画はとらないというこの監督は、この作品につづけて、『西遊』という作品もとっています。
“Walker”という短編が、いまyoutubeで閲覧できますが、おそらくこれをヨーロッパにもっていって展開したものではないかとおもいます。主演はこれもまたリー・カンション、そして共演が、フランス映画・演劇界の鬼才、ドニ・ラバンです。

2014年4月29日火曜日

田村尚子『ソローニュの森』



ぼくたちは、いろいろな約束ごとでかためられた世界のなかでいきている。約束ごとでかためられた状態のことを「制度」という。もちろん、「制度」はそれ自体ではわるいものではないが、いまのよのなかでは、かなりこまかいところにまでそれがはいってきているので、ふとわれにかえると、なんだかとても窮屈なことになっていると気づくことがある。
ことば、言語も「制度」の代表的なもの、というより、言語が、それ以外の制度のもとになっているといってもいいぐらい、そういう、「制度づくり」という、社会的な存在としての人間の基本的ないとなみのベースをになっている。
ぼくは、ふだん、しごとでは、ことばのことばかりかんがえることがおおいのだけれど、それも、「どんな研究をしているのですか」といわれても、うまくイメージしてもらえるようなこたえができないぐらい、なんだか、ぎゅっとしたことをかんがえている。ことばのことをかんがえるときは、意図的に、ことばのことしかかんがえないようにしている。
でも、きっとそれだけに、しごとじゃないときは、ことばとことばのあいだにあるようなもののことばかりかんがえていることに、最近気づいた。しごとのときは、ことばとことばのあいだには、なにもないことにしているのだけれど、ほんとうはそうじゃない、そこからこぼれでているもののようなものをさがしあるくようなことをする。
「井のなかのかわず」のはなしのように、「制度」は、いったんそのそとにでることができて、それを客体化できるようになると、なんでそんな約束にしたがっていたのか、とおもうことがある。全寮制の私立高校にかよっていたしりあいが、いまおもいだすと、あれは刑務所とおなじだった、とか、そこまでいかなくても、あの頭髪規則とか、制服のながさやはばがどうしたとか、くつしたのいろが、とか、なんだったのだろう、と、ぼくたちはおもえる。
そして、実はぼくたちがいまいきている「社会」そのものについてもそうだということに気づく視点をもつことができるだろうか。よくよくかんがえると、なんでこうなのか、理由をとうてもこたえがなさそうなこと、いや、「制度」というのは、「そうきまってることなんです」「規則ですから」といういいかたにあるように、そもそも理由をとわれることを前提にしていない約束ごとでくみあげられた世界のことなのだ。
ぼくたちは、それがどこかでわかっているか、わかることができるところにいる。でも、そこはとわないで、「そうきまっている」ことをうけいれ、そのかわりにえられるものを享受することをえらんでいる。便利な社会、物質的なゆたかさ、など。「常識人」になることが、いちばん賢明な選択。そしてできれば「かちぐみ」にのこること、そこまでいけば、心配のないくらし、おもしろおかしくいきられる生活がまっている。いろいろがまんするし、ときにはひとにもっとおおくのことをがまんさせる(抑圧)ことにもなるけど、それでもそのほうがいいひとたちによって、現代の文明社会ができている。
ことばとことばのすきまからこぼれおちるものが、ほんとはいくらでもあることがわかっているのとおなじように、ぼくたちはそれでも、ほんとは世界がそんなにパキパキしていないことをしっている。しかし、そのことをかんがえるとしんどくなるから、やめておく。おおくのひとたちがそうする。でも、それができないひとたちもいる、あるいは普段はそれができても、できなくなる瞬間をあじわうことがある。あるいは、パキパキした世界のはざまにみえてくるもののほうに、こころやからだがよろこび、祝祭的な気分につつまれることもある。おまつりやおどること、それがもっと先鋭化すれば、芸術表現になる。芸術は、ときに、バランスをうしなって、ころんでたちあがれなくなりそうにになるぼくたちのこころをすくってくれることがあるが、それは、そんなわけで当然のことなのだ。
田村尚子の『ソローニュの森』(2012 医学書院)は、彼女が6年間かけてかよいつづけた、フランスのラ・ボルド病院という精神病院を舞台にしてとられた、うつくしい写真と、彼女自身による文章をあつめた作品だ。ラ・ボルド病院の創始者であり、現在も院長であるウリ医師とのであいがひとつのきっかけで実現したということだが、これはいわゆるフォトジャーナリズム的な作品ではない。これをみて、よんだからといって、ラ・ボルド病院についてまとまったことがわかるわけではないし、田村の文章も、写真のキャプションのようになっているわけではないから、ぼくたちは、文章と写真を何度もゆききしながら、そして結局このひとがこの写真のひとで、ということを完全に確信できないままの部分ものこったりする。そして、この病院では、医師やスタッフが白衣や制服をきて、ということもないので、どのひとが患者で、というのがわからないばあいもある。
この写真集がすばらしいのは、それが、ことばとことばのあいだからこぼれでるもの、あるいは制度やそれを構成するさまざまな約束ごとのわくにおさまりきらないものを、11枚の写真のうえにやきつけているようなかんじがするところだ。いい写真は全部そうなのかもしれないけれど、それがとてもよくわかる(でも、なにがとてもよくわかるのかということををかんがえるのにはとても時間がかかったけど)。田村が被写体にした患者たちは、うえにかいた意味での「制度」のなかにおさまらない、あるいはそれをうけいれないひとやものたちではないかとおもう。ラ・ボルド病院という空間そのものが、もしかすると、そういう「制度」から自由な世界で、さっきかいた理屈で、そういう状況では、不便なことや、どうすればいいか、あらかじめ「社会」が用意したマニュアルがつかえないことがきっとたくさんある。だけど、その分、たぶん、ひとは、普段、みえていない(理由がそうでなければどこにもない)ものを、ようやくみることができるのかもしれない。ややこしいいいかたになったが、要するに、ないことにされていたもの、あることを無視されていたものをみつける瞬間ということだろうか。
ここから、本来ならひとつひとつの写真に具体的に言及して、それらがどのように、いまかいたことを実現しているのかをいうべきところなのだが、それが、どうもできない。にげ口上のようになるが、そのようにすることで、ぼくは、これらの写真を、またことばのきまりとしくみのなかに回収してしまうようになることをおそれるからだ。そのかわり、どうしてもこの写真集をたくさんのひとがみればいいとおもう。そうすればわかるから、といいたい。
この写真集を、田村のほかの活動とあわせてかたることはできるかもしれないとおもう。田村は、もうながくピーター・ブルックの公演の写真をとっており、ブルック自身の日常のポートレイトをとることをゆるされる唯一の写真家である。彼女のほかの写真集には、『Voice』という、抽象性のたかい作品集、そして、『attitude』という、あるテレビ番組に順に出演した俳優たちのポートレイトをモノクロで撮影したものがある。このように、写真家としての田村の「位置づけ」のようなものは一見むずかしく、さきにかいたように、『ソローニュの森』はフォトジャーナリズム的なものではなく、『attitude』も、スターのポートレイト集ではない。しかし、ぼくは、これら、一見ジャンルをきめにくいほかの作品と、『ソローニュの森』にえがかれている世界に、矛盾をかんじない。いずれの作品にも、ここまでかいてきたような、「こぼれでるもの」の瞬間がとらえられている。それが精神病患者であろうが、有名な俳優や歌手、タレントであろうが、また、どことか、なに、ととらえにくい風景のぼやけたひとこまや、水面の反映であろうが、結局田村がさがしているものはおなじで、また田村がそれらをとらえるそのしかたも、当然のことながら共通の「かたりくち」によるものだとかんじている。そしてそれは、どのようなかたちをとっても、そういう感性によってこそ表現しうる、おなじうつくしさをもっている。
「瞬間をとらえる」というのは、写真を描写するときによくつかわれることばである。しかし、これは実は写真だけにかぎられたことではない。芸術作品は、すべて作家と対象がで、あるしかたでであう絶妙な瞬間のなせるわざではないかというのが、ぼくが最近おもうことで、田村の写真には、それが写真というメディアであるという以上に、瞬間をしずかにつかむかんじが、ほとばしっていると感じる(「しずかに…ほとばっている」はおかしいかもしれないが、本当にそういうかんじなのだ)。
湯川潮音のライブについてのブログで、ぼくは彼女のうたをききながら、おとがことばになり、ことばがおとになる瞬間にいあわせた、というようなことをながくかいた。うたや音楽は、音色やその高低、一音のながさ、おとのかさなりをさがしながら、これが(さがしていた)それ、というおとのながれをみつけ、そこにさらにことばをのせてゆくものである。そこには、バッハのように構築的につみあげてゆく場合もあるのかもしれないが、それ以上に重要なことは、「制度」や「約束」からどうふみだすかということである。そのふみだしかたがどれほど絶妙かということで、芸術作品のうつくしさは決定するのではないか。音楽がそうであれば、それは絵画や写真、ダンスや演劇でもきっとおなじことである。芸術家はしばしば、「なんどやってもうまくいかない」となげき、「あるとき、ふとした拍子に」とめをかがやかせる。なにがうまくいかないのか、なにがいったのかは、本人にしかわからず、われわれ鑑賞者は、できあがった作品のすばらしさを享受することしかできない。その「ふみだし」のステップのようなものが、ぼくがみた田村のすべての作品のなかに共鳴している。おなじリズム、おなじ和音がきこえてくる。そしてそれは、約束されたリズムや和音ではなく、田村が自分の表現手段として手にするカメラによってこそ、うまれくることができたものであるにちがいない。
attitude』のかずかずの著名人たちのポートレイトも、そういう瞬間をとらえ、人物たちのなんともいいがたい表情がひきだされている。それぞれ相当時間をかけたのかとたずねると、これは、あるテレビ番組の撮影のかたわらにおこなわれたものなので、そのあいまのほんの10分とかそういう時間にとったということだ。『Voice』についてはおおくをしらないが、この驚愕すべき作品のかずかずは、世界のありようが、芸術によってここまでの色調と振動をもってゆさぶられるのだということが、やはり田村のリズム、田村の和音でつむぎだされているげんばに、ページをめくるものはたちあうことになる。
このように、それぞれ、ちがうタイプの作品が、その温度をかんじとるように、よりそってみてゆくうちに、実は、おなじはだざわりのものであるのだということが、だんだんわかってくる。そして、表現者でないぼくは、そういう芸術者のもつにちがいない苦悩と祝祭の瞬間に、はげしく嫉妬しつつも、こころからのきもちで、それに感嘆し、称賛しないではいられない。
おなじ写真しかとれない写真家もいる。それはそれで、一貫性とよばれるし、このひとはこれしかできない、というのがよさ、ということもある。田村はそれをえらばなかった。「制度」のそとにふみだすこと、そのすきまからこぼれるもの・表情・風景をみのがなさないこと、それをやさしくだきとめること、そしてそれを印画紙のうえにえがきだし、とらえられた瞬間をしめすこと、それをみまもってゆきたいとおもうこと。

2014年2月25日火曜日

こどもに漢字をどうするか


きのうのブログのつづきです。ながくなりすぎたので稿をこのようにあらためるのですが、では、おまえは自分のこどもが漢字などおぼえなくてもよいとおもうのか、ときかれたらどうするのかということです。
ぼくにはこどもがいないので、この点についてリアルにこたえることはできないのですが、どちらにしても難問。
でも、ぼくは、自分にこどもがいたら、きっと漢字をおしえるだろうし、一生けんめいおぼえるといいよというとおもいます。
その理由のひとつが、さきのブログで何度もかいたように、漢字はおもしろいから、漢字についての知識をゆたかにもつことで、いろんなことにつながるとおもうから。
もうひとつは、言語にかんするきまりごとは、共同体のきまりごとなので、ぼくひとりがどうこういったところでかわらず、ぼくのおもいをこどもにたくしても、こどもはそれではしあわせになれないということ。ソシュールは言語の「社会性」というのを強調したひとでもあるけれど、それです。いま漢字はいらないというのは、「反社会的」なことにしかならない。反社会的なことはそれだけでは別にわるいことではないけれど、こどもはそれで得をしない。だからおしえるしかない。
そのときのこどもにたいする説明は、ぶっちゃけ、いろいろ本心じゃないこともいうとおもいます。
そのうえで、こどもが18歳ぐらいになったら、ぼくはさきのブログにかいたようなはなしをして「どうおもう?」とこどもにきくでしょう。そして、そのこたえしだいでは、「こんなに漢字をたくさんおぼえないと日本語社会でいきていけないというのは、なんだかきゅうくつなはなしだよね」とかえしたりするかもしれない。
しごとで、そのぐらいの年齢のひとにフランス語を(外国語として)おしえています。そしてぼくは、この言語のなかにときどきある、ただ文法をややこしくするだけのような規則を「こんな規則なくてもいいし、多分なくすべきなんだけどね」といいながらおしえます。「ごめんね、でも、ぼくひとりがそれいってもフランス語はかわらんのよ」とかいいながら。で、それを平気でいうのは、かれらがそういうことをわかってくれる「おとな」だからです。だから、「言語ってこういうもんじゃないとおもうんだよね」というはなしもしたりすることもあります。こどもには、それではきっとうまくいかないから、すこしのあいだ、そういうはなしはしないでおく。
気づいたでしょうか。言語は制度なので、それ自体が権力的です。言語をまなび、習得することとは、その権力に屈することです。それによってのみ、ぼくたちは、その言語共同体のなかまにはいることができます。「恣意的」というのもよくいわれることです。そう、なぜそうなのかをとうことは、はじめから禁じられています。
だから、習得過程では、ちょっとどうしようもない部分がある。よしあしに関係なく、それをしないとはじかれる。
でも、だからこそ、ひとたびものにしたら、こんどはそれを解体(必要ならば)する主体に、みんなひとりひとりがなってゆけばよい。このおびただしい漢字を「日本語話者」というだけで強制するのは拷問だとおもうなら、そこから日本語話者を解放してやればよい、ということです。そしてその解放をかちとったあとでないと、ぼくたちは、漢字をしらないこどもやひとをしあわせにはできないということです。
でも、いつかようやくそんなときがきたとしても、ぼくはそれでも漢字をおしえるかもしれない。おもしろいから、勉強してごらん。
ただ、ピアノのレッスンのように、あきたり、いやがったりしたらやめさせればいいし、すきそうなら漢字の達人にそだてればいい。これは共同体の義務ではないので、自由に采配されること。
最後にひとこと。
知識は、それをもっていることを前提にされているひと(教師や、特定分野の専門家など)以外にとっては、ただ「すごくよくしってるね」という以上の、それでひとそのものの価値がはかられるようなものであってはいけない。知識をもつものが、それによって特権階級を構成しては絶対にいけない。すぐれた能力は、どんな能力でもすごい、とおもっていいけど、もっていないことがはずかしい、とおもうような能力はない。ひとは、なにもなくても十分にうつくしいから。
すこしはなしがそれているとおもいますか。ぼくのなかではひとつのはなしなのだけれど。
ながくならないように、ここでおわりますが、ことばがたりないかもしれません。また、かけることがあればかきます。よんでくれて、ありがとうございます。

2014年2月24日月曜日

ひらがながおおいこと:ことばがみんなのもので、自由なものであるために








ひらがながおおくて、かえって文章がよみにくいとよくいわれます。もちろんわかっているし、そうおもうひとにはわるいなともおもうのですが、ここ数年、ちょっとこういう実験をしてみています。よんでくれるひとには、それにつきあってもらわないといけないのですが、つきあってもらうこともふくめて実験。
基本方針は、訓よみの漢字をつかわないということです。音よみについてはいまのやりかたでは制限していません。まれにですが、よみにくい、意味がとりにくそうというときにはふりがなをつけたり、新聞のようにかっこがきしたりします。
理由をまず単純にいうと、ことばは、何千という規模のかずの記号をおぼえなければなりたたないようなものであってはならないとおもうからです。言語社会学者のましこ・ひでのり氏は、ぼくなどよりもっと徹底していて、全部ひらがなで学術論文もかいたりするようなつわものです。しかも「表音主義」といって、ことばを、発音するそのままでかくので、「わたしわ かんじぶんかに ちょーぜん とした たいど お しめしたい」(引用ではありません)と、一見とてもふざけたようなじづらで、がんがんかいているひとで、ひそかにおおいなる敬意をはらっています。さすがに、オールかなだとほんとうによみにくいので、ましこさんはアルファベットの言語がするような「わかちがき」を採用しています(いまのぼくの作例はわかちかたがまちがっているかもしれません)。
ぼくはそこまではできないし、ましこさんもそれだけで書記言語生活をいきているわけではありません。で、じゃあどうしようということで、自分のなかの法則として、訓は漢字にしないことにきめてやってみています(ときどきどちらかわからずまちがえたり、普通にうっかり漢字にしてしまったりもするけど)。
ことば、特に母語をはなす能力は、口頭言語については、ぼくたちがとくに教育や訓練をうけることなく習得できるすばらしい能力で、これは原則としてすべての人間にあたえられています。ことばがあるおかげで、ぼくたちはひとつのえものをあらそってころしあわなくてよくなり、おとなからこどもまで、きもちやかんがえやいろいろな情報をやりとりし、共有できるようになりました。とりあえずしりあいじゃないというだけでガーガーほえあっているイヌとかをみていると、ありがたいことです。
もちろん、ことばのおかげで人間の知性はどんどん発達して、よけいなものもたくさんつくってしまいました。だけどきっとそれをのりこえるためのものをつくるのもきっと人間のちからだと信じています。がんばってほしいものです。
ことばは、だから当然のことながらみんなのものです。おなじ言語コミュニティのなかでは、「ことばをつかう」という点で権力関係が生じてはいけないし、生じる可能性があるものはなくしたほうがいい。だから、総攻撃をうけそうだけれど、敬語もなくしたほうがいいとおもっています。すくなくとも、いっぽうが敬語で、他方がそうじゃないことばづかいをするような関係を、言語そのものが(ただ加担するのではなくみずから)つくってしまうようなことではいけません。
漢字も、ぼくたちの記憶におおきな負担をかけるものです。また日本語のかきことばのかきねをとてもたかくしてしまうものです。それなのに、ぼくたちは小学校から高校ぐらいまで、毎日のように漢字をたたきこまれ、まさに「漢字ドリル」であたまにあなをあけられます。誤解のないようにいうと、ぼく自身は漢字がすきだし、漢字をおぼえるのもたのしかった。いまはこんなことをしているので、ずいぶんわすれてしまった(ほんとに)けれど、漢字が世界からなくなってしまえばいいとおもっているのではないのです。
ぼくがあってはいけないとおもうのは、日本語話者(非母語話者もふくむ)のすべてが、そこそこのしっかりした言語生活力(いまかんがえたことばですが、その言語をつかって(はなし、きき、よみ、かく)社会生活をおくる能力のようなもの)をもっているといえるためには、とてもこまかい漢字をやまのようにおぼえなければいけない。しかも、その知識がじゅうぶんでないと、「日本人のくせに」とか、普段そうでもないひとが急にこんないいかたをしはじめるし、それが自身におよぶばあいは「日本人なのにはずかしい」と、これもまた普段絶対そういうこといわなそうなひとでも、ということで、この漢字によるナショナル・アイデンティティのねは、とてもふかい。それがおかしいといいたいのです(麻生太郎の「ミゾユウ事件」についてのみ(それ以外は全部だめです、強調)、だからぼくは麻生を全力で弁護したい)。
別のことばでいうと、「ことばのバリアフリー」といってもいいし、こういう観点から漢字の氾濫(はんらん)を批判するひとは、ましこさん以外にも結構います。もうだいぶまえだけれど、朝日新聞で知的障害者をめぐるなんらかの社会問題(内容は不覚にもわすれてしまった)についての記事があって、当事者むけにとくにかかれた部分があり、そこの活字のポイントがほかよりおおきくて、漢字もとてもすくなくおさえてあるのをみました。そのとき、「え、なんで全部こういうふうにかかないで、この記事だけそういうふうにかくのだろう」とおもったのが、きっかけでした。
語弊があるとおもうけど、身体障害については、その「バリアフリー」にぼくたちは比較的よくなじんでいる。点字や点字ブロックがなにかしらないひとはいないし、エレベータもここ20年ぐらいでずいぶんふえました。もちろん、それでそっちの面でのバリアフリーが達成したとは全然おもわないけれど、とにかくそれについてひとがなにかいったり、反応したりする、という回路そのものはできているとおもいます。でも知的障害についてはどうかというと、ぼくの勉強不足かもしれませんが、そこまではいっていないのではないかとおもいます。もちろん、物理的な対応で、すぐにめにみえるものではないから、なかなかそうはいってもむずかしいとはおもうのだけれど、でもたとえば、文字を単純にすることでかわることがあるのだったら、新聞なんて全部ひらがなでもいいのに、とぼくはそのときおもいました。
数年まえから、東京や大阪の地下鉄の駅名が「M3」のように、路線名と終点からのかずで体系的にあらわされるようになりました。そうなったいきさつをぼくはしらないけれど、たぶん、外国人のモビリティへの配慮なのだとおもいます。しらない言語をはなす土地では、たしかにアルファベットでかいてあってよめるにはよめるというばあいでさえ、固有名詞の駅名をおぼえるのは大変だから、という経験からしてもありがたいこと。
なんでも単純にすればいいということではないのです。そうすることで、文化がおもしろくなくなるという部分もあるとおもうから。でも、言語は、そういう文化的価値をうんぬんする以前に、まずなによりもぼくたちがいきてゆく手段です。またぼくとあなたが、いろいろなものやことやきもちをかわし、共有するとても貴重な手段です。それが、ドリルでおぼえてやっとなんとかつかえる、というものであっては、やはりまずいのではないかとおもいます。
さきほどちらっと「表音主義」のことをかきましたが、それもおなじ発想です。係助詞のwaだけは「は」とかく、格助詞のoは「を」とかく、といった規則、その他、実際にはこう発音しているのに、規則でこうかくことにするというのは、書記言語をいたずらに複雑にしてしまうし、意味がない。「こんにちわ」とかくと、いまこれをかいている日本語入力ソフトでもかってに修正されてしまうけれど、これがなぜ「ただしく」は「こんにちは」なのかを説明できるひとはおおくないし、別にみんながしっていないといけないことでもない。なぜそんな面倒なことをするのか。助詞については、おおむかしに発音がちがっていたかららしい。かなづかいをあらためて「おもひで」とかをやめたときに、のこってしまったわすれもののような規則。
だから、問題は、いまかいたかなづかいのこともふくめて、けして、いわゆる表意文字をつかう言語にかぎったことではありません。ぼくはフランス語をよみかきできますが、つづり字上の規則はとても複雑で、同音異義語との区別のために、よまない文字がはいっていたり、おなじ発音でも別のつづり字のものもいろいろあります。もっと単純にすればいいのに、それでは「フランス語らしさ」がなくなるということになる。
このようにかんがえてゆくと、書記言語というのは、ようするに「きちんとかける教養人」と「ろくにかけない下々のひと」という権力関係をつくるためのものでもあるということに気づきます。フランスには、アカデミーとよばれる言語を管理するたいへん権威的な機関があり、そこがフランス語をまさにコントロールしています。日本語にはさいわいそういうのはないけれど、でも、おぼえないといけない(しらないことがはずかしいとされる)漢字がおおすぎる。そしてたくさんしっているひとがえらそうにして、そうじゃないひとがはずかしそうにしないといけない、そのえらそう/はずかしそうの関係が、たかだか文字のことでできあがってしまうのを、ぼくはそのままにしたくないので、それでこういう実験をやってみているのです。
たしかに、ぼくはわかちがきをしないので、文節のきれめがみえにくくてよみにくいということはあります。でも漢字はよめず、しらなければそこまでですが、文節のきれめは、すこしみなおしてもらえればすぐにわかります。ごくまれに、どちらできるかで意味がかわるというような経験をすることがありますが、気づいたときはほかの方法でふせぐし、気づかなかったときはあやまります。そのぐらいでも、いいんじゃないかな。全然わからないより、というのがぼくのかんがえです。きれめのわかりにくさは、ええっと、とぼくのことばそのものを注意ぶかくみてもらうことにつながりますが、わからない漢字には、たち往生するしかありません。
その意味では、ハングルはすばらしい発明だったとおもいます。あんなものが、もう500年以上もまえにできていたというのはおどろきです。ひとつの文字がひとつの音節に対応し、その文字そのものは子音と母音のくみあわせで表現されるということです(学習したことがないのです)。ぼくは、いままでかいてきた意味で、ハングルが導入された瞬間が、朝鮮語にとっては文字言語史における一種の「解放」だったのではないかと想像します。これはそれまで漢字だったから中国文化からの解放だという意味ではもちろんなく、書記言語が、まえにのべた「権力関係」から解放されたという意味です。
漢字をあまりつかわず、とりわけ訓よみのほうをやめた、というちょっと中途半端にみえる選択には、もうすこし理屈があります。あとすこし、かきます。
訓というのは、もともとが漢字ではなかったものに、意味から漢字をあてたものですから、すべて一種の「あて字」です。よくいわれるように、このくにの地名のほとんども、もちろんあて字です。あて字はおもしろいとおもいます。「兎に角」とか、よくやった!とおもいます。でもずっとつかわれたり、ましてそれが「よみ」として定着してしまうと、それはいっきに陳腐化し、意味がなんとなく漢字のほうにばかりひっぱられるような気もします。
そういうことが、とりわけ漢字をつかわなくなることでよくみえてきます。和語はもっとひろい意味をもっているはずだし、そのおとのひびきそのものがつたえるところで、すくなくとも口頭では、やりあってるはずなのに、ということです。あるいはまた、もともと日本語が区別していないことを、中国語が区別しているために、あえてつかいわけたりすることがあります。「聞く」と「聴く」とか、その他いろいろありますね。「書く」「描く」「画く」とかくひともいる、そして「搔く」もある。
前者のほうは、中学校ぐらいでならったときにびっくりしました。「聞く」はぼんやりきくことで、「聴く」は注意してきくこと。たぶんこの漢字をならうまでだれも、「きく」という行為に2種類あるのだとかんがえるひとはいないのではないかとおもいます(そして「きく」には2種類なんてない!)。だからいまもずっとぴんとこないまま。
また、「かく」についても、日本語ではもともとそんなものは区別していなくて、なんかほそいもので表面をこりこりすることが「かく」なんだけど、いつのまにかなんだかちがうことばのようにかんじてしまっている。漢字の「おかげ」なのか「せい」なのか。でももしかすると、日本語にとって大事なのは、むしろそれを全部おなじことばでいうほうじゃないかというおもいもあります。「ことば」という語そのものにも「言葉」というあて字(これは正真正銘)があって、詩的で、きれいだなとおもう反面、そのイメージだけに「ことば」をとじこめたくないというおもいもでてくる。「みる」は「見る」でいいかな、あ「観る」「看る」「視る」とかいろいろあるけれど、それ以前の問題としてたとえば「みすごす」「やってみる」などをかんがえるまでもなく「みる」は視覚関係だけの意味ではないし、「看る」があるぐらいではカバーできない。それで漢字のときとそうじゃないときをつかいわけるひともいるけれど、だったらつかわなくてもいいのに、とおもったりとか、そういうことです。
最後にもういちど念をおしたいのですが、ぼくは漢字が日本語文化からきえてしまえばいいとまでおもっているわけではありません。漢字はおもしろい。だけど、ある言語コミュニティの構成員全員に、それをつかいこなすことを要求するには、やはり複雑すぎる記号体系だとおもうのです。関心があるひとはどんどん勉強すればいいし、その可能性は保存してゆくべきだとおもうけれど、全員におしつけて、それで「日本人度」や教養をはかろうとしてはいけないとおもいます。
日本は識字率がたかいといわれます。ここまで複雑な文字体系で、その数字(wikiでは99.8%とかいてある)を維持するのは驚異的なことだとおもいます。これは、もちろん漢字ドリルのおかげで、それをもって日本の日本語教育を称賛し、それでやってきてみんなしあわせなんだからいいじゃないかといわれるかもしれない。99.8%がどうやって計測されたものなのかしらないけれど、「初等教育を終えた年齢」とかいてあるので、そもそも日本の教育をうけた日本人しか対象になっていません。それでも1000人にふたりのひとが字がよめない。そいつがわるい、ですか?でも、これにくわえて、日本で教育をうけることなく日本で生活しているひともいます。日本語は日本人のものだから、そこまでかんがえなくていいのですか。ぼくはちがうとおもう。
ことばは、できるだけまなびやすいものであったほうがよくて、すべての意味で、それにいちばん苦労するひとに、よけいな苦労がないようにできることがあるのなら、したほうがいいとおもいます。文法規則などを単純にするのはとても大変です。ぼくはたとえば、フランス語の名詞の性を廃止すべきであるという論文を日本語でもフランス語でもかき、以外にもフランスでのほうがよい反響をいただきましたが、正直実現はむずかしいとおもっています。でも文字はすぐにできるとおもいます。
そんなわけで、ぼくはもうしばらくはこの実験をつづけます。といいつつ、最近はこれが完全に自分の基本になり、訓に漢字をつかってしまうと、きもちわるいかんじさえするくらい。でも、ひそかに、みんなぼくのまねをしてくれないかなとおもっています。