2012年1月27日金曜日

警察と自衛隊



 

 だれもみにこないブログだけれど、いちおう世界にひらかれているところで、こういうはなしをするのはとてもこわい。でもこわいといっていてはいけないということではじめたことなのでがんばってみる。
警察も自衛隊もないほうがいいものだ。なぜなら、両方とも武器をもっているから。それは、「わるいひと」や「敵」にむかっていくためのもので、どちらも、そういう「悪」から市民をまもるものだからということでみとめられているのだが、理想的には、「悪」を攻撃するのではなく、なくす(生じさせない)ことのほうが大切で、なくなれば、警察も自衛隊(軍隊)も不要になる。これはすべてのひとのゆめだけれど、とねがっているけれど、他方で、警察官になるのが、自衛隊員になるのがゆめ、というひともいる。そんなゆめをもってはいけない。ゆめらしくないじゃない。
「学生運動」といばるにはあまりにもささやかなことをすこし学生時代にしていた。いや、していたという認識はないのだが、あるとき、そうなのだとおもうときがあった。党派の連中が学内でけんかをして、それをまっていましたといわんばかりに当時大学の門のすぐ外側に常駐していた警察機動隊が学内にはいってきて、あっというまに学舎内のいろんなところにはいっていった。ぼくはけんかの当事者ではなかったが、警察がこんなにたくさん大学のなかに、しかもこんな長時間いるのはおかしいとおもって、なかまと一緒に「かえれ」コールをした。ちかくにいた機動隊員がぼくたちのほうをみて、「おまえらはハエだ、ひっこめ」といった。そのときに、警察のなんたるかがわかった気がした。
警察にもいろいろあるけれど、すくなくとも、かれらは、なにがただしいかということでうごいているのではない、ということが、そのときにわかった。かれらは、命令にしたがってうごいているということ。ぼくがだれかしらなくても、ぼくをつかまえたり、ぼくに暴力をふるったりすることもできるひとたちということ。
自衛隊のひととはからんだことがない。でも自衛隊のひとたちは、災害支援もするので、そういうことがおこるとたちまち評判をあげる。そして「自衛隊員になってひとをたすけたい」というまちがったゆめをいだかせてしまう。「ひとをたすけたい」はOK。でもそのためには自衛隊員にならなくてもいい。「ひとをたすけるしごとについて、自衛隊がそれをかねたりしなくてもいいようなよのなかにしたい」とおもってほしい。自衛隊の災害支援活動そのものを否定するのではない。そしてかれらの業務の重要な部分を、とりわけ「平時」のいまはになっていることもわかっている。けれど、かれらもやっぱり、なにがただしかということでうごいているわけではない。だからこそ、いまはありがたいことをたくさんしてくれるけれど、そういうときになれば、おなじかおのおなじ自衛隊員は、日本人ではないにせよ、おなじ人間に銃口をむける準備ができているひとたちということを、ぼくたちはどうしてもわすれてはいけない。できれば、自衛隊員のひとにもそれをおもいだしてほしい。そして、みんなで自衛隊をやめて、そこでみにつけた技術と体力をつかって、最強の災害救助隊を組織してほしい。そっちのほうが、かれらがきっと体験しているとおり、こんなにみんなのやくにたつし、こんなにひとに感謝される。かれらがすくえるこどもが、被災地のこどもだけに限定されることはなくなる。世界中のこどもをたすけられる。軍事組織じゃないから、どこにでもいけるようになる。武器をすててください。命令によっては、きびすをかえしてこわいかおになってひきがねにゆびをおく、ということはやめたほうがいい。こどもたちのゆめをこわしてしまう。
でもしっている、わかっている。警察も自衛隊もなくすのは無理。むりむり。それでも、「ないほうがいいものだよね」というかんじを、できれば共有しておきたいということ。「ある」ことをてばなしで肯定しないことをがんばれるのではないかということ。警察官のひと個々人、自衛官のひと個々人をどうこういうのではない。全員「ひと」だから、全員みとめたい。ないほうがいいけど、なくすわけにはいかないから、ぼくがそれやります、というひとがいることを、いまはみとめないわけにはいかない。だから尊重しなくては。
たとえば、こどもが「ぼくもおおきくなったら自衛隊にはいりたい」といったら、「ありがとう、でも、きみがおとなになるころに、こういうしごとをするのが自衛隊じゃなくなってたらもっといいよね」といえるうつわを、それでもぼくは個々人にのぞみたい。そういう教育を(自衛隊員にもこどもにも)してほしい。なくせないのなら。
問題が解決したら解散する組織っていっぱいあるじゃない。「○×対策委員会」とかそういうの。兵隊も警察も、古代からいままでなくなったことがないけど、いつかゆめの世界が実現したら、なくなればいいね。ぼくたちは、それまでの対策委員会っていえるような、せめてそういうこころいき。それでも、それをがんばってるとおとい職業ではありつづけるとおもうのだけれど、ちがうだろうか。
警察のひとも、自衛隊のひとも、上層部のひとじゃなくて、前面にでてくるようなひとたちにこそ、たくさん本をよんでもらって、自分がなにをしているのかをきちんとみんながわかること。「命令」が絶対でない、そういう「規律」もきっとありうる、そこをめざすこと。だって、だれもハエではないから。「おまえこそハエじゃないか」ともうすこしでぼくはいいかえしそうになった。いいかえしてしまったら、結局ぼくたちはわからないままだから。
ぼくがよくしっている国では、歴史の中で国の体制がおおきくかわった記念日に、軍隊のパレードがあって、航空ショーがあって、市民はそれをよろこんでみにいくということをまだやっている。それをやっているかぎりは、たぶん戦争はおわらない。だからおわっていない。「ないほうがいいよね、でもそれまでのあいだがんばってくれてるんだよね、ありがとう」ぐらいでとどめたい。ぼくはこれでもかなり譲歩してはなしているつもり。
「自分でかんがえてきめる」ひとがたくさんいるのは、全体を「まとめよう」とするひとにはとてもこまる。だから「規律」系の団体ほど、その要素はできるだけひくくおさえられる。百歩ゆずって、それでも、それがそういう組織に限定されているうちはまだいいかもしれない。「いまは大変な時期なのだから、つべこべいわずにがまんしなさい、いわれたとおりにしなさい」で、ぼくたちは20世紀のなかごろまでは散々だった。でもその「散々」の土壌は、ほんとうにもうなくなっているのか。ぼくは不安だ。だから「ないほうがいいよね」でいきたい。