2017年3月10日金曜日

『たかが世界の終わり』グザビエ・ドラン


賛否両論ある作品で、からくちの批評もおおかった作品ときいています。そういう予備知識も、プロットもしらず、ただ、すごいキャスティングに、なかば戦々恐々としたきもちで、ようやく映画館にむかいました。
グザビエ・ドラン、ぼくはかなりでおくれてみはじめたので、みたことがあるのは、『わたしはロランス』と『マミー』のみです。今回の作品は、カナダでの撮影ではあるものの、前作までの「地元」系キャストではなく、全員フランスのスター級のひとたち、そして、映画の舞台がどこか、12年ぶりに帰省する主人公がどこからかえってくるのか(「おおげさにいうな、そんなとおいところじゃないし」というセリフが何回かありますが)も、ぼくが注意散漫だったということでないかぎり、すくなくとも、はっきりとこころにのこるようにはしめされていません。
この映画をみて、たくさんのことをおもったのですが、いちばんつよく印象にのこったのは、前作、前々作以上に特徴のあるカメラワークでした。撮影監督は、ずっとドラン作品でカメラをまわしてきたアンドレ・テュルパン。前作の『マミー』でも、インスタグラムを彷彿とさせるような正方形の画面が印象的でした。
カメラワークといっても、なにか技術的なことをいいたいわけでもないし、演出より撮影がかっていた、ということでもなく、これほど、つまりぼくでも気づくような独特のカメラワークが、監督の演出をはなれてひとりあるきしてしまうのではなく、むしろ、演出との濃密な共犯関係のようなものをうみだしていること、その成功ぐあいに、だいぶちがいますが、ウォン・カーウァイの一連の作品とクリストファー・ドイルの関係のようなものを感じたりもしました(そしておそらく、おなじ理由で、このようなカメラワークはあざとい、という批評もあるのだとおもいます)。
家族の映画です。34歳の主人公、都会で、劇作家として成功しているルイが、12年ぶりに故郷の家族をおとずれる。母親、としのはなれた兄、妹、そして、かれにとっては初対面の兄の妻。映画の設定は、いまかいたようにひさしぶりに家族と再会する青年なのですが、そこから、はなしはほとんどまえにすすみません。会話がつづかず、つづいていても、説明がないというか、必要とおもわれていないというか、会話の内容からはなしの骨格がみえてくるような通常の映画の話法は、そうかなとおもうところでうらぎられ、にもかかわらず終始だれかがしゃべっているこの映画は、結局だれもだれともまともにしゃべっていない、しゃべろうとしても頓挫する、ことばが、つぎつぎとどんどんよこすべりしていって、意味とむすびつかない(これをもっとも象徴的に体現しているのが、マリオン・コティヤール演じる兄の妻、名演です)。
そのいっぽうで、さきにもかいたように、この映画では、クローズアップが多様されます。被写界深度をさげて、カメラからちがう距離に位置する人物へのフォーカスが、セリフにあわせて移動する、といった手法も多用され、これは、たしかにいやなひとにはいやなのかもしれないけれど、ぼくはそれをみながら、「クローズアップ」とはなんぞや、という思考に、映画をみながらもっていかれそうになりました。
「感情の強調」「内心にせまる」などということばが一般的な効果としていわれそうなことですが、クローズアップした対象をみる視点とは、いったいだれの視点か、ということが、急に疑問としてふくらんでしまいました。ぼくたちは、実生活では、親密な肉親や恋人などをのぞけば、「クローズアップ」に匹敵する距離まであいてにちかづくことはない。おおくのばあい、最低でもおおよそ1メートルとか、そのぐらいの距離が、自分の目とあいてのかおのあいだにはあるはずで、クローズアップしたかおだけではなく、そのぐらいの距離でとらえられるあいてのたたずまい(上半身ぐらいでしょうか)全体で、あいての感情やおもいをとらえることになれているはずです。かおにちかづけば、内心にせまれるのか、これはだからかならずしもそうでもないようにおもうのです。
かといって、さきにかいたように、この映画のなかでは、ことばは、映画がえがくつもりであるかのような(もしかしたしたらふりをしている)家族の関係に、きちんとしたこたえをあたえてくれませんから、ぼくたちは、カメラにみちびかれるままに、フォーカスがあった登場人物たちの表情に目をこらします。かれらは概して表情ゆたかなのですが、そこでぼくたちは、人物たちの眼前から眼前へととびかう、すがたのみえない妖精のようなたちばにおかれます。ほら、いまこのひとはこんな顔をしているよ、とその妖精=カメラはおしえてくれるのだけれど(これを「神の視点」というのでしょうか)、ぼくたちにはたいしたものがみえてこない。クローズアップは、むしろ、それがなにかわからないということを強調しているかのようにみえるのです。
そうやってみているうちに、なんだかぼくたちは、とても親密な、それゆえに事情がよくわからない、この家族の、修復しがたい断絶の現場にまよいこんでしまった、当事者でも非当事者でもないような、いごこちのわるいような、それでいて特権的であるかのようなきもちで映画にひきこまれていきます。そして、なんだかんだいって予定調和をのぞむぼくたちは、その方向へのいとぐちをなかば本能的にさがそうとするのですが、妖精のごとき浮遊もむなしく、ぼくたちのこころみは、主人公ルイの、帰省して家族にある告白(自分はもうすぐ死ぬ)をするのだという所期の目的と同様に、頓挫してしまいます。そしてそこにほうりだされたまま、この映画はおわってしまう。
この映画には、ほとんどこの5人の家族しかでてこず、クローズアップだらけの、やたら「ちかい」映画ですが、配役に、スター級の俳優をそろえたのは、ただ映画の豪華なものにするためだけでないことに、みながら納得しました。ナタリ・バイ、バンサン・カッセル、レア・セドゥ、マリオン・コティヤール、そして主役のガスパル・ユリエル、全員の演技が、これ以上のものはないのではないかというほどすばらしいものでした。これほど脈絡がよくわからない、なぜここでこのひとがなきだすのか、気づまりになるのか、なんでこいつはこんなイケズばっかりいうのか、といったことの説明もないのに、ぼくたちはなぜだかいちいちかれらのクローズアップの表情に、動揺させられる。なにかがみえてくるわけではなく、なにかよくわからないことが強調されているだけなのに、そのわからないなにかにこころをうごかされてしまう演出と演技。これは、このレベルの役者陣でなければ不可能だったのではないかとおもいます。
家族とは、血縁的に圧倒的他人である異性のペアの、そのそれぞれに一親等でつながっているこどもという、ぼくにいわせれば極端に異質な関係をもつメンバーによって構成されている、にもかかわらず、「家族はなかよく」というモラルが、すくなくともぼくがしっている社会では絶対視され、家族の断絶は、即「不幸」にむすびつく。家族があいしあうのはもちろんいいことだとぼくもおもうけれど、それがあたりまえのようにできることではないということからも、だからといって目をそらすこともないようにおもいます。この映画の家族は、ほんとに、なにがあったのかわかりませんが、もうとりかえしのつかないぐらいこわれていて、主人公の帰郷が契機となって、なにか修復のてがかりをつかめないかと期待しつつも、それをだれも、本当の意味ではすなおに表現できず、しかし、それでも家族であること、12年ぶりにかえってきて、その日のうちにまたかえる、ということがあってもそうなのだということをつきつけているようにもおもいました。
ただ、「積年の」といわれるようなひととひととのいざこざには、他人に説明したところで、なんでそれがそこまでのなかたがいの原因なのかわからないということもたくさんあるとおもいます。だからこそ、この映画(もしくは原作があるので原作)は、そこをつまびらかにすることに関心をよせるよりも、本質的には簡単にうまくゆくわけがない家族のありさま、のようなものを、かよいあわない、にもかかわらずやつぎばやのことばと、執拗なクローズアップの反復によって、ぼくたちをそのただなかに強引にひきずりこみ、とりこむことによって、おもいしらせようとしたのではないか、むりやりまとめると、そんなことをおもいました。
親子も、夫婦も、家族も、結局は自然にできるものではなく、努力と忍耐と、そして「愛」とよばれるおもいやりによって「つくられる」ものだとおもいます。だから、それが全部成功するわけではないのです。それは絶望的なことでしょうか。だとしたら世界の半分ぐらいはきっと絶望におおわれていることになるのではないかな。そのことそのものに絶望するのではなく、「のりこえよう」とはないきをあらくするのでもなく、かといって達観するのでもなく、どうしようもなくそこにある「家族」と、ぼくたちはどうするのか、そんなことがこの映画がといかけることだ、といいたいわけでは全然ないのですが、なんだかいろいろかんがえているうちに、そういうきもちになりました。
そんなわけで、ぼくはすきですよ、この映画。やっとほんとうにドランに興味をもてるようになったかもしれません。まわりには大ファンのともだちがおおいので内緒ですが。

2016年10月25日火曜日

維新派の「生命」

維新派の最終公演がおわった。毎年ばしょをかえておこなわれる年中行事のように、その公演をたのしみにしていたが、ぼくのような一鑑賞者にとっては、突然、何のまえぶれもなく、「最終」となってしまった。どんなものにでもおわりがあるというのは、ひとりのおとなとしてわかっているつもりだったけれど、会場にたどりついた瞬間から、そこをあとにするまでのすべてのものが、「きょうでおわり」というのはあまりにもさびしいと、おおくのひとたちとおなじようにおもわざるをえなかった。

しかられるかもしれないが、ぼくは、維新派は、しばらくまえから、まさに維新「派」というひとつの舞台芸術の流派として括弧たる様式を確立した(だからといって様式美に固着しない)劇団になっているとおもっていた。維新派観劇が「年中行事」になるのも、これもまたもっとしかられるかもしれないが、もしかしたら神社のマツリのような、「はて、ことしの獅子舞は?」といったきもちにさせる、スペクタクルであったからかもしれない。

自身演劇人(役者)である、としわかい友人は、はじめてみた維新派の公演が、今回の最終公演だったということだった。そして彼女は、維新派演劇の「顔面しろぬり」についておもしろいことをはなしてくれた。というより、維新派観劇が年中行事化し、それが自分にとっての演劇の「デフォルト」になっているぼくにとっては、維新派の役者がすべての公演で顔面しろぬりであることは、あらためて指摘されなければ、「あたりまえ」として意識されないことになってしまっていた。

「俳優」とは、「人に非ず人を憂う」のだと、いつか映画監督の阪本順治がいっていたが、舞台の役者は、歌舞伎に代表されるように、顔面に、しろぬりどころかそれにくわえた極端な化粧をほどこして、役者の日常をしらないものにとっては役者個人を「みるかげ」がなくなるほど、固定化したやくがらに自分の顔面を自己同一化する。能のように面をかぶれば、それはより徹底化するし、横浜ボートシアターなどのように仮面の使用を基本にしている劇団もある。役者本人の、すくなくとも顔面にうきでる「個」は、ある種の演劇にはじゃまなのだ(だからこそ逆に、野村萬斎のようにゴジラの(CG)着ぐるみのなかでも個をだしまくれるツワモノもいるということになる)。

くだんの友人は、そういう前提を考慮したうえでかどうか、維新派の「しろぬり」も、役者の「個」の消去にあること、それだけではなく、ひとりひとりの役者が、維新派という一表現主体(もしくは松本雄吉)の「コマ」となり、舞台上のフォーメーションの参与項となるための視覚上の措置である、と、(「視覚上の措置」などというややこしいことばづかいはぼくのものだが)おもっていたそうだ。

ところが、実際にみてみると、役者たちの舞台上のフォーメーションの視覚的な美学のすばらしさはもちろんそうだったのだけれど、かといってそれはけして、ひとりひとりの役者の「個」を消去するために作用するものではなかった。むしろしろくぬられた顔面をかきわけてでてくるように、役者たちの表情は、顔面においても、からだ全体においてもきわめてゆたかであり、そこから、これは「個」の消去ではなく「生命」の表現なのではないかというのが、その友人の理解で、ぼくはそれをなるほどとおもったと同時に、それまで自分が維新派についておもっていたちょっとした疑問のようなことにたいするカギをもらったようなきもちになった。

「生命」ということばで彼女がなにを本当にいおうとしていたのかはわからないが、このことばは、維新派についてぼくがかねてからおもっていたことを、とてもすっきりさせてくれることばだった。維新派は劇団で、パフォーミング・アート集団ではない。たとえばコンテンポラリー・ダンスの公演がみせてくれるような身体表現のテンションとおなじものは、維新派に期待できるものではない。それどころか、維新派のふりつけはときにぎこちないし、そろっていないし、さらにいってしまうと、「しろうとくさい」。しろうとくさいのだけれど、しろぬりの役者が、たっぷりとしたおくゆきと高低差のある舞台上にぽつんぽつんぽつんぽつんぽつんと、配置され、そこにやわらかい照明があたるだけで、なんといえばよいのか、舞台上に「血がかよう」ような、「血流」が「生命」をうむような、そんなしずかな躍動がこちらにつたわってくるのだ。役者のふりつけはそろっているようでぎこちなく、しろぬりの顔面からは血のかよった個の表情が「だだもれ」になっている。ぼくも、ずっと年中行事のようにみてきたが、いわば、維新派がいつまでたってもうまくならない感じにたいして、それでもこんなにきもちが高揚させられるのはなぜだろうというといへのこたえが、維新派をはじめてみた、そのわかい友人の「生命」(「いのち」だったかもしれない)ということばをてがかりに、すとんとみえたようにおもった。

維新派は、松本雄吉のもちものではなかった。松本雄吉が分娩した「生命」だったのだ。維新派の公演はこれでおわるけれど、維新派を、わたしの友人のようにただいちどみたひとも、わたしのようにかぞえきれずみたものも、その記憶(これは脳だけではなく身体の記憶というのもこみで)に、松本の「生命」をきざんで、いきてゆくことできるのだと、おもったら、なみだがでてきた。松本雄吉さん、ありがとう。

2014年8月19日火曜日

芸術の無邪気


ノルマンディの友人をたずねるべく、パリ、サン=ラザールえきで、列車をまっていた。すこしはなれたところから、はげしいタッチのピアノの演奏がきこえてきた。喧騒もあってよくきこえていなかったのだが、もしかしたら、セシル・テイラーばりのフリージャズ?こどもがあそんでいるわりにはちからがありすぎるねいろ、などとおもいながらちかづいてみると、「どうぞ、ひいてください」と、1台のアップライト・ピアノが設置してある一角があり、いわゆる、ホームレス風のおじさんが、たのしそうに、けんばんをたたきまくっていた(ちなみに、写真はセシル・テイラーさま、でもまあこんな感じ)。
そういうことね、とおもいながら、それでもおもしろくて、しばらくちかくできいていたのだが、そのひきっぷりは、それでもときどき、やっぱりなんかすごい、ただめちゃくちゃじゃない感じ、わるくないテンション、と、結構真剣にききいってしまった。と、おもっていたら、えきの保安員が3人づれで、ゆっくりとかれのほうにちかづき、要するに、ただめちゃくちゃひくのはやめてください的なことをいっているのかとおもったら、セシル・テイラーは、さっさと演奏をやめ、「わかったよ、やめるから」とでもいいながらだろうか、すこし距離があったのできこえなかったが、さっさとたちさってしまった。
よくかんがえてみなくても、おじさんがセシル・テイラーかどうかはどうでもいいことだった。そして、だれも苦情をいったわけでもなさそうだった。そして、現にぼくはかれの演奏をたのしんでいた。
これは 「わいせつ」のはなし とおなじだ、と気づいた。ちゃんとした「楽曲」を「演奏」していなかったので、おじさんは、やめさせられた。でもたぶん、あのおじさんが、ほんもののセシル・テイラーでも、もしかしたら、もっとうるさいだろうし、やっぱりやめさせられたかもしれない。
芸術は、だれに気にいられれば芸術なのか、だれの気にさわれば排除されるのか。
おじさんは、先述のように、まったく「抵抗」しなかった。社会のなかでの自分のたち位置のよわさを、もうすでに、いたいほどわかっているというふうだった。
あ、ぼくはなにもしなかった。「え、たのしくきいてたんですけど」とかけよるべきだったのだろうか。
あるいは、それがこどもだったら?許容されるとしたらなぜ?
でも、芸術には、大なり小なり「こども」みたいなところがある。楽器をひきならすことや、うたったり、おどったりすることは、こどものような無邪気さが必要。
社会が要求する、「おとな」の「わくぐみ」にはめこまれることに、ぼくたちはたいてい、合意し、すすんでそれに支配され、おなじことを他人にも要求する。フランスはそれが日本よりずっとゆるい。ひとりで、おおごえでうたをうたいながらあるいてるひととか、キックボードで快走している中年のおじさんが、普通にいる。それでも、こういうことがおこる。
アーティストのみなさん、ふだん、ちょっとかわってるねといわれるみなさん、まけずに、そのまま、この無言の窮屈さからぼくたちを解放してください。「普通」がいいとおもっているみなさん、それでもいいから、でもそれを他人にもおなじようにもとめないでください。わざわざぼくたち一般人が、おたがいをみはりあっているような空気をつくらなくてもいい。
列車にのりこんだ。ひさびさに、セシル・テイラーをききながら、窓外のけしきをたのしむことにしよう。

2014年8月8日金曜日

ことばの死:安部首相は広島を適当にかたづけた


このことについて、世田谷区議上川あや氏のツイートにおおきな反響があり、マスコミもそれをとりあげている。とりわけ、ハフ・ポストの分析はこまかい。
安倍は、内閣総理大臣として原爆記念の日に広島におもむき、平和記念式典であいさつし、その内容のベースが、昨年のもののつかいまわしであった(ハフ・ポストの上記分析をみればそこに議論の余地はない)。
社会人をやっていると、いろいろむだな文書を作成しなければならないこともあり、あ、これだったら、去年つくったものをバージョン・アップして、適当に、にくづけすればいいか、とやっつけてしまうことはたしかにある。ほめられたことではないが、そのような文書をつくらされることにたいする内心の抗議のきもちから、これで十分ですよ、どこがわるいんですか、といったきもちでそうすることもあるだろう。
社会人をやっているとそういうこともあるが、それは、かならずしもしごとをサボるためではなく、そういうものを適当にかたづけ、より重要な業務に十分な時間をさくことで、しごとの効率をあげるためである。そのぐらい、なぜだかわからないがぼくたちはいそがしい。
安倍が広島でやったこともこれとおなじことである。安倍は総理大臣なので、まちがいなくとてもいそがしい。いそがしいので、広島は適当にかたづけて、かれにとってのより重要な業務にきっと時間をさいたのだ。安倍は、広島を適当にかたづけた、これをどう評価するかということだ。
安倍はもとより言論を軽視している政治家であることは、ぼくにかぎらずおおくのひとがいっていること。自分がきめたいことを十分な議論もないままに決定し、あとで「もっと丁寧に説明すべきだった」、だったらなぜ、というはなし。また、ぼく自身も、かれの「積極的平和主義」というなぞの用語や、「原発はベースロード電源」といったごまかしのものいいについてこのブログにかいた(前者について、その後、平和学の専門家であり、ガルトゥングの訳者でもある奥本京子氏が、ぼくと同趣旨の、かつ百倍しっかりとした学術的根拠にもとづく発言をされていることをよろこびとともにしった。フェイスブック加入者には、このリンクでその文面が公開されている)。
安倍の言論は、このようにごまかしと不備にみちている。言語をばかにするな、とおもっていたら、この事件で、安倍からはもはや、原爆記念の日の広島においてさえ、いきた人間のことばがでてこないのだということをおもいしらされた。ぼくたち国民は、なぜ安倍が、ぼくたちの税金をつかって、わざわざ広島にいって式典であいさつすることをよしとするのか。国の政治・行政の代表者が、その日に、そのばで、肉声で、そのときのさまざまな状況をふまえて、ましてその特権的な、無数の国民がみみをかたむけるその空間で、血のかよったことばで、平和と核兵器の廃絶をうったえることをまちのぞんでいるからである。きょうの安倍は1年まえの安倍とおなじではないし、おなじであってはいけない。きょう、いま、平和と核廃絶のために、内閣総理大臣がなにをかんがえ、なにをことばにするのかをぼくたちはしりたかった。はじめからおわりまで、きょうの、かれのことばできけるとおもっていた。それを、かれはまた愚弄した。「ことしもまた広島のあれか、去年のやつの、今年ように適当になおしといてくれる?それでいいでしょ、いそがしいし」こんなことばがきこえてくる。
「積極的平和主義」についてのブログにかいたように、安倍は「平和」の語の意味を理解していない。安倍には、「平和」とはなにかが理解できない。そんなひとだから、今回の事件にぼくはあまりおどろかなかった。そして正直、まえの段落にかいたような、かれのことばへの期待など、うしないきっていた。でも、ここまでやるとおもわなかった。ことばがおかしい、まやかしにみちているだけではない、もうかれのことばは死んでいる。あやまってほしい。そうでなければ退場してほしい。 

2014年7月15日火曜日

「ろくでなし子」逮捕:3. 「感動大作」とポルノは一字ちがい


『世界の中心で愛を叫ぶ』ぐらいから、つまり、世紀のかわりめぐらいから、大衆芸術の世界では、「なける」ことがその芸術的価値判断の基準でとても重要な位置をしめるようになった。きちんと社会学的な調査をだれかにしてほしいものだが、映画や小説の広告などに、「なみだがとまらない」「こんなにないたのは」と、とにかく「なける」作品であることが喧伝され、それを鑑賞したものがまた「めっちゃないた」とはやしたてる。そして「めっちゃないた」ことがイコールその作品の価値であるようないいかたをしてはばからない言説がはびこることになる。芸術でなくことはぼくもしょっちゅうあるけれど、ないてしまったからといって、それがかならずしもすばらしい作品だということにはならない。ただ、なくことは、きもちのいいことだ。それだけ感情移入できて、なんだかもとをとったようなきもちになる。そしてそれに「感動」という形容があたえられて、ふだんくやしかったりかなりかったりしてないたときとは別の価値があたえられる。「感動」ということばは、いつのまにかとてもやすっぽいことばになってしまった。
だが、「なく」ことは、感情をおさえられずにもらしてしまうことにほからない。そしてそれがきもちいいから、いい映画をみた、いい本をよんだというきもちになるが、ふりかえってみると、作品そのものは実はたいしたことないというばあいもすくなくない。あとでふりかえると、ちょっとあざとかったよなとか。それもふくめて「なける」=よい作品というのは、はやとちりだし、これだけ「なける」がうりものにされると、芸術の価値について、むしろまちがいをみちびくものになりかねない。「感動大作」も商品である以上、そこに、つまり「なける」ことに目的をしぼった作品が量産される可能性もある。そうなると、これはほとんどポルノとおなじだということ。大変下品なことばあそびで恐縮だが、「なける」の「な」を「ぬ」にかえれば(男子限定になるが)、そこでおこっている/ひきおこされることはまったくおなじ。「ぬ」に目的をしぼった作品が男性むけポルノで、「な」が、俗悪な「感動大作」ということ。
もちろん、だからといって俗悪な「感動大作」があってはいけないということではない。ただ、それは芸術とはいえない。芸術と娯楽のちがいはなにかという、これはまたおおきな議論になってしまうが、もうすこし冷静に区別してもいいのかもしれない。「感動大作」は、しばしば芸術性もたかいとかんちがいされてしまうが、実際には逆であるということ(注意:もちろん「なける」映画がすべて娯楽作品であるというのではない。乱暴な一般化をしているからこそ「」のなかにいれて論じている)、そこだけは注意する必要がある。
インテリが、「感動大作」をゴミだといって排除しても、それをつくった監督や作者をつかまえて刑務所にいれるということにはならない。それがたとえ「なける」ことだけに目的をしぼった浅薄な作品だったとしても。これは納得できる。ところが、「わいせつ」は、「な」が「ぬ」にかわっただけなのに、インテリのみならず、すべてのひとがその存在自体を基本的に軽蔑する(もちろん、そこには、さきにのべたように、そこに付随する暴力・虐待にくわえて、そういう付随物がなくてもポルノ自体が女性蔑視であるかというおおきな問題がある。だからこそ、いまここでは、ポルノ全体を射程にいれた議論はできない)。そして、ちょっとしたことで逮捕されるということにもなってしまう。
ここでもういちど、ろくでなし子にもどってくる。「芸術です」と作者がうったえれば、乱暴に刑務所にいれるまえにはなしをきかなければいけない。「な/ぬける」だけのゴミのような「感動大作」とポルノがこれだけ蔓延している世界で、性器の表象を禁じる(くせにそれがだいすきな)おじさんたちの偏執を、 自身の性器の「プリント」によって告発する芸術家を、なぜここまで簡単に逮捕し、きずつけることができてしまうのか。そこには犯罪性、暴力性のかけらもないどころか、女性蔑視にたいするカウンター行動のひとつとして解釈することさえ可能である。
「わいせつ」はおそらくぼくたちのなかにたしかに存在する。けれどこれは警察に判断できることではない。だから刑事てつづきでこれを判断することはできない。もし判断が必要であれば、すでにのべたように、専門家を複数まじえた議論のばがどうしても必要である。そのプロセスなしでいけるのは、事件に犯罪性や人権侵害が付随しているばあいにかぎるべきである。こうしたことをきちんと判断するのは容易ではないが、そのちからを、それでもぼくたちの社会は獲得しなければならない。警察や国家が、一元的な判断主体になってしまえるような社会はおそろしい。そうでないと、表現者ばかりが今後もきずつきつづけ、自由な表現が破壊されつづけることになるだろう。また、あらゆる判断の主体が市民自身であることによってのみ、成熟した文化的な社会が期待できる。今回あつかった問題以外もふくめ、そちらにむかおうとしない現実を、おおいに憂慮する。と同時に、警察以上に、上記のような報道を安易にしてしまったマスコミを断罪する必要がある。


「ろくでなし子」逮捕 :2. 「わいせつ」それ自体は犯罪ではありえない

ろくでなし子そのものについては以上だが、この機会に「わいせつ」についてもうすこしのべておきたい。わいせつなものは、たしかに存在するとおもう。個人的な感情のレベルで、これは、ただそれだけのためね、とおもえるものがそれにあたる。しかし、わいせつな表現の媒体は、写真、印刷物、映像、絵画、演劇、パフォーマンスなど、芸術がもちいるメディアに完全にかさなる。「わいせつ」は、なんらかの表象についてくだされる評価なので、当然といえば当然なのだけど。かさなってしまうので、芸術表現の一環としてそれをやっていても、それ「わいせつ」と嫌疑をかけられてしまい、今回のようなことになる。ぼくたちがこれにたいしてできることはひとつしかない。年少者への性的虐待や、強制された暴力性、売春などの別の犯罪性がみえるばあいは別として、i)「わいせつ」かどうかを、まず警察が判断してとりしまるということをしない(刑法改正)。そして、ii)「わいせつ」といわれても、「いえ、これは芸術なんです」と当事者がこたえたら、その「わいせつ」ポイント以外に犯罪性がとえないことがあきらかなばあい、当事者と専門家をまじえた議論によって解決する(できないばあいには民事法廷で)。
「わいせつ」は、なんどもかいているように個人的な問題なので、だれもそうおもわなければ存在しない。よく、ある対象について性的な連想をしてしまい、それをはなすと「そんなふうにいうのおまえだけだぞ、いやらしいな」というばめんがある。警察がそうおもったのなら「わいせつ」というのは自由だが、だからといってすぐに逮捕とかではなく、みんなにきいてみる。きいてみて、だれも「わいせつ」といわなければ、警察がいちばんわいせつだということになり、ごめん、ぼくだけでしたととりさげていただく。また、「わいせつ」の犯罪性は、もちろんものにもよるが、すくなくとも、にせ札のように、その存在自体が健全な貨幣経済を直接おびやかすおそれのあるものとはならない。だからこそ、ポルノは一定のわく内でこのくにでもみとめられている(もちろんポルノ自体の是非をとう別の議論は可能だ)。さきにちらっと言及した幼児虐待や暴力性、売春などは、そもそも「わいせつ」に付随しておこる「別件」であり、「わいせつ」そのものは、刑事的なものではありえない。たとえばスポーツ新聞のエッチ・ページをこれみよがすのが「わいせつ」で我慢がならないので、条例で禁止してもらうとか、風俗店の看板が通学路にあるのでどけてくださいとか、そういう次元のこと。
「わいせつ」を犯罪と即断してしまうことは、それによって確保されるかもしれない社会的正義よりも、今回のような表現の自由をあきらかに侵害してしまうばあいがおおいのではないかとおもう。そして、このような「とりしまり」が常態化することで、これは「わいせつ」云々だけではなく、警察国家を招来させるものにもなりかねない。そのへんの懸念もおおいにある。
「わいせつ」は、個人のなかにおこる、「うわ、やらし〜」という感情・欲望レベルのことで、さきにのべた表現媒体が共通することにくわえて、そもそもが個人の感情や欲望におおいにうったえることがその本質のひとつである芸術表現とのかさなりがどうしても問題になってしまう。だから、警察が簡単に規制できるものではないし、それをするなら、芸術を愛するものとしては、もっとほかにも規制してもいいのではないかとさえおもってしまうことがある。最後にそのはなし。

「ろくでなし子」逮捕 :1. 「千円札裁判」にまなべ

もうかれこれ50年ほどまえのことだが、「千円札裁判」というものがあり、「芸術とはなにか」という問題が司法の現場で議論される一大イベントになった。発端は、赤瀬川源平が制作した当時の千円札を模した作品が、「通貨及証券模造取締法」違反にあたるかどうかということをめぐり、「事件性よりも法の場において芸術をめぐる言説空間が膨れ上がった」(成相肇)。ぼく自身はこのようすを赤瀬川の著作でかつてよみ、おおいに興奮したが、「「千円札の模型」が芸術だという理解がない裁判官に向けてアピールするため、高松次郎、中西夏之らが弁護人として「ハイレッド・センター」の活動について法廷で説明し、当時における「前衛芸術」の状況について説明した。また、他の関係者の「前衛芸術」作品も裁判所内で多数陳列され、裁判所が美術館と化した」(ウィキペディア)。
昨日、漫画家・アーティストの、ろくでなし子が、自分の性器の3Dデータを頒布した嫌疑で逮捕された。刑法の「わいせつ物頒布等の罪」の違反にあたるということが推察される。メディアは、逮捕の時点で、彼女があたかも犯罪者であるかのように、「自称芸術家の○○歳のおんな」(フジテレビ「スーパーニュース」:実際には実年齢が明言されている)などと彼女について言及し、「自称」とする時点で、ろくでなし子のアーティストとしてのアイデンティティを否定してはばからない(ちなみに、ぼくが確認したかぎり、日本の英語メディアでは、おなじ新聞社のものでも、「自称」にあたる表現はなく、単にartistとされているものばかりだった。ダブルスタンダード)。
ちなみに、ウィキペディア(上記リンク)によると、上記の「千円札裁判」においても、あの赤瀬川が「同 (1964) 127日に、“自称・前衛芸術家、赤瀬川原平”が「チ37号事件」【当時話題になっていた別のニセ札事件】につながる悪質な容疑者であると、朝日新聞に誇大に報道され」たそうである。日本のマスコミは、すくなくとも50年まえからまったくかわっていない。
今回の事件にあたり、まず、当事者である、ろくでなし子氏が即時釈放され、起訴されたとしても、こうした当局の抑圧にまけることなく、きちんと司法でたたかっていただくことを希望する。「千円札裁判」の例がしめすように、判決のいかんにかかわらず、このようなかたちで、法のばにおいて芸術をめぐる言説空間が展開することはひとつのチャンスととらえることもできる(※このことに関連して、彼女の今回の行為を確信犯とするかきこみなどもみたが、これについてはどちらでもいいとおもう。確信犯なら、彼女自身があまりきずついていない分、むしろよかったというべき。ただし、とりしらべ中にまちがいなく彼女にむかって展開されるセクハラ的言説を想像するとこころがいたむ)。
メディアは50年間かわっていないとさきにのべたが、時代はそれでもすこしはかわっている。フェイスブックもツイッターもある。安保闘争以来とだえていた「動員」も、震災とファシスト政権の横暴の「おかげ」で再活性化しているのだ。なにかおもしろいことができるかもしれない、とおもいたい。千円札裁判のときには、裁判所に「これも芸術です」と、からだじゅうに洗濯バサミをつけまくった中西夏之が「証人」として登場するなどといったことがあったという。今回は、「偽造」か「芸術」かではなく、「わいせつ」か「芸術」かが問題である。ツイッターなどでよびかけて、世界中から性をテーマに活動するアーティストが証人としてあつまった法廷は、壮観であるにちがいない。特別にユースト配信なども許可してくれたりしたらもっといい(無理か)。ぜひひとにぎわいさせてほしい。そして、フジテレビをはじめ「自称芸術家の○○歳のおんな」といったいいかたで、彼女の本名と年齢を開示し嘲弄したメディア各局には、名誉毀損のつみをとい、芸術のなんたるかをまったく理解していない(というか判断していない)、まさしく「マスゴミ」でしたすみませんと公式に謝罪させる必要がある。そのぐらいぼくはおこっている。