ろくでなし子そのものについては以上だが、この機会に「わいせつ」についてもうすこしのべておきたい。わいせつなものは、たしかに存在するとおもう。個人的な感情のレベルで、これは、ただそれだけのためね、とおもえるものがそれにあたる。しかし、わいせつな表現の媒体は、写真、印刷物、映像、絵画、演劇、パフォーマンスなど、芸術がもちいるメディアに完全にかさなる。「わいせつ」は、なんらかの表象についてくだされる評価なので、当然といえば当然なのだけど。かさなってしまうので、芸術表現の一環としてそれをやっていても、それ「わいせつ」と嫌疑をかけられてしまい、今回のようなことになる。ぼくたちがこれにたいしてできることはひとつしかない。年少者への性的虐待や、強制された暴力性、売春などの別の犯罪性がみえるばあいは別として、i)「わいせつ」かどうかを、まず警察が判断してとりしまるということをしない(刑法改正)。そして、ii)「わいせつ」といわれても、「いえ、これは芸術なんです」と当事者がこたえたら、その「わいせつ」ポイント以外に犯罪性がとえないことがあきらかなばあい、当事者と専門家をまじえた議論によって解決する(できないばあいには民事法廷で)。
「わいせつ」は、なんどもかいているように個人的な問題なので、だれもそうおもわなければ存在しない。よく、ある対象について性的な連想をしてしまい、それをはなすと「そんなふうにいうのおまえだけだぞ、いやらしいな」というばめんがある。警察がそうおもったのなら「わいせつ」というのは自由だが、だからといってすぐに逮捕とかではなく、みんなにきいてみる。きいてみて、だれも「わいせつ」といわなければ、警察がいちばんわいせつだということになり、ごめん、ぼくだけでしたととりさげていただく。また、「わいせつ」の犯罪性は、もちろんものにもよるが、すくなくとも、にせ札のように、その存在自体が健全な貨幣経済を直接おびやかすおそれのあるものとはならない。だからこそ、ポルノは一定のわく内でこのくにでもみとめられている(もちろんポルノ自体の是非をとう別の議論は可能だ)。さきにちらっと言及した幼児虐待や暴力性、売春などは、そもそも「わいせつ」に付随しておこる「別件」であり、「わいせつ」そのものは、刑事的なものではありえない。たとえばスポーツ新聞のエッチ・ページをこれみよがすのが「わいせつ」で我慢がならないので、条例で禁止してもらうとか、風俗店の看板が通学路にあるのでどけてくださいとか、そういう次元のこと。
「わいせつ」を犯罪と即断してしまうことは、それによって確保されるかもしれない社会的正義よりも、今回のような表現の自由をあきらかに侵害してしまうばあいがおおいのではないかとおもう。そして、このような「とりしまり」が常態化することで、これは「わいせつ」云々だけではなく、警察国家を招来させるものにもなりかねない。そのへんの懸念もおおいにある。
「わいせつ」は、個人のなかにおこる、「うわ、やらし〜」という感情・欲望レベルのことで、さきにのべた表現媒体が共通することにくわえて、そもそもが個人の感情や欲望におおいにうったえることがその本質のひとつである芸術表現とのかさなりがどうしても問題になってしまう。だから、警察が簡単に規制できるものではないし、それをするなら、芸術を愛するものとしては、もっとほかにも規制してもいいのではないかとさえおもってしまうことがある。最後にそのはなし。
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