『世界の中心で愛を叫ぶ』ぐらいから、つまり、世紀のかわりめぐらいから、大衆芸術の世界では、「なける」ことがその芸術的価値判断の基準でとても重要な位置をしめるようになった。きちんと社会学的な調査をだれかにしてほしいものだが、映画や小説の広告などに、「なみだがとまらない」「こんなにないたのは…」と、とにかく「なける」作品であることが喧伝され、それを鑑賞したものがまた「めっちゃないた」とはやしたてる。そして「めっちゃないた」ことがイコールその作品の価値であるようないいかたをしてはばからない言説がはびこることになる。芸術でなくことはぼくもしょっちゅうあるけれど、ないてしまったからといって、それがかならずしもすばらしい作品だということにはならない。ただ、なくことは、きもちのいいことだ。それだけ感情移入できて、なんだかもとをとったようなきもちになる。そしてそれに「感動」という形容があたえられて、ふだんくやしかったりかなりかったりしてないたときとは別の価値があたえられる。「感動」ということばは、いつのまにかとてもやすっぽいことばになってしまった。
だが、「なく」ことは、感情をおさえられずにもらしてしまうことにほからない。そしてそれがきもちいいから、いい映画をみた、いい本をよんだというきもちになるが、ふりかえってみると、作品そのものは実はたいしたことないというばあいもすくなくない。あとでふりかえると、ちょっとあざとかったよなとか。それもふくめて「なける」=よい作品というのは、はやとちりだし、これだけ「なける」がうりものにされると、芸術の価値について、むしろまちがいをみちびくものになりかねない。「感動大作」も商品である以上、そこに、つまり「なける」ことに目的をしぼった作品が量産される可能性もある。そうなると、これはほとんどポルノとおなじだということ。大変下品なことばあそびで恐縮だが、「なける」の「な」を「ぬ」にかえれば(男子限定になるが)、そこでおこっている/ひきおこされることはまったくおなじ。「ぬ」に目的をしぼった作品が男性むけポルノで、「な」が、俗悪な「感動大作」ということ。
もちろん、だからといって俗悪な「感動大作」があってはいけないということではない。ただ、それは芸術とはいえない。芸術と娯楽のちがいはなにかという、これはまたおおきな議論になってしまうが、もうすこし冷静に区別してもいいのかもしれない。「感動大作」は、しばしば芸術性もたかいとかんちがいされてしまうが、実際には逆であるということ(注意:もちろん「なける」映画がすべて娯楽作品であるというのではない。乱暴な一般化をしているからこそ「」のなかにいれて論じている)、そこだけは注意する必要がある。
インテリが、「感動大作」をゴミだといって排除しても、それをつくった監督や作者をつかまえて刑務所にいれるということにはならない。それがたとえ「なける」ことだけに目的をしぼった浅薄な作品だったとしても。これは納得できる。ところが、「わいせつ」は、「な」が「ぬ」にかわっただけなのに、インテリのみならず、すべてのひとがその存在自体を基本的に軽蔑する(もちろん、そこには、さきにのべたように、そこに付随する暴力・虐待にくわえて、そういう付随物がなくてもポルノ自体が女性蔑視であるかというおおきな問題がある。だからこそ、いまここでは、ポルノ全体を射程にいれた議論はできない)。そして、ちょっとしたことで逮捕されるということにもなってしまう。
ここでもういちど、ろくでなし子にもどってくる。「芸術です」と作者がうったえれば、乱暴に刑務所にいれるまえにはなしをきかなければいけない。「な/ぬける」だけのゴミのような「感動大作」とポルノがこれだけ蔓延している世界で、性器の表象を禁じる(くせにそれがだいすきな)おじさんたちの偏執を、
自身の性器の「プリント」によって告発する芸術家を、なぜここまで簡単に逮捕し、きずつけることができてしまうのか。そこには犯罪性、暴力性のかけらもないどころか、女性蔑視にたいするカウンター行動のひとつとして解釈することさえ可能である。
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