ノルマンディの友人をたずねるべく、パリ、サン=ラザールえきで、列車をまっていた。すこしはなれたところから、はげしいタッチのピアノの演奏がきこえてきた。喧騒もあってよくきこえていなかったのだが、もしかしたら、セシル・テイラーばりのフリージャズ?こどもがあそんでいるわりにはちからがありすぎるねいろ、などとおもいながらちかづいてみると、「どうぞ、ひいてください」と、1台のアップライト・ピアノが設置してある一角があり、いわゆる、ホームレス風のおじさんが、たのしそうに、けんばんをたたきまくっていた(ちなみに、写真はセシル・テイラーさま、でもまあこんな感じ)。
そういうことね、とおもいながら、それでもおもしろくて、しばらくちかくできいていたのだが、そのひきっぷりは、それでもときどき、やっぱりなんかすごい、ただめちゃくちゃじゃない感じ、わるくないテンション、と、結構真剣にききいってしまった。と、おもっていたら、えきの保安員が3人づれで、ゆっくりとかれのほうにちかづき、要するに、ただめちゃくちゃひくのはやめてください的なことをいっているのかとおもったら、セシル・テイラーは、さっさと演奏をやめ、「わかったよ、やめるから」とでもいいながらだろうか、すこし距離があったのできこえなかったが、さっさとたちさってしまった。
よくかんがえてみなくても、おじさんがセシル・テイラーかどうかはどうでもいいことだった。そして、だれも苦情をいったわけでもなさそうだった。そして、現にぼくはかれの演奏をたのしんでいた。
これは
「わいせつ」のはなし
とおなじだ、と気づいた。ちゃんとした「楽曲」を「演奏」していなかったので、おじさんは、やめさせられた。でもたぶん、あのおじさんが、ほんもののセシル・テイラーでも、もしかしたら、もっとうるさいだろうし、やっぱりやめさせられたかもしれない。
芸術は、だれに気にいられれば芸術なのか、だれの気にさわれば排除されるのか。
おじさんは、先述のように、まったく「抵抗」しなかった。社会のなかでの自分のたち位置のよわさを、もうすでに、いたいほどわかっているというふうだった。
あ、ぼくはなにもしなかった。「え、たのしくきいてたんですけど」とかけよるべきだったのだろうか。
あるいは、それがこどもだったら?許容されるとしたらなぜ?
でも、芸術には、大なり小なり「こども」みたいなところがある。楽器をひきならすことや、うたったり、おどったりすることは、こどものような無邪気さが必要。
社会が要求する、「おとな」の「わくぐみ」にはめこまれることに、ぼくたちはたいてい、合意し、すすんでそれに支配され、おなじことを他人にも要求する。フランスはそれが日本よりずっとゆるい。ひとりで、おおごえでうたをうたいながらあるいてるひととか、キックボードで快走している中年のおじさんが、普通にいる。それでも、こういうことがおこる。
アーティストのみなさん、ふだん、ちょっとかわってるねといわれるみなさん、まけずに、そのまま、この無言の窮屈さからぼくたちを解放してください。「普通」がいいとおもっているみなさん、それでもいいから、でもそれを他人にもおなじようにもとめないでください。わざわざぼくたち一般人が、おたがいをみはりあっているような空気をつくらなくてもいい。
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