2011年11月6日日曜日

Croire à ce que nous ne pouvons pas vérifier


L’« espoir », qu’est-ce que c’est ? C’est croire à ce que nous ne pouvons pas vérifier, à ce qui est invisible. En fait, c’est notre « langage » même.
Nous avons cessé de rester seuls et nous avons décidé de vivre avec des gens. Un jour de pluie, nous avons fabriqué un toit pour nous abriter, et nous nous y sommes mis avec quelqu’un. Petit à petit, nous avons agrandi ce toit, et maintenant, il doit couvrir toute la terre.
Nous avons commencé à parler, certainement maladroitement au début, plus tard avec aisance. Mais même aujourd’hui, nous ne pouvons vérifier si le sens de nos mots est le même que celui des autres, et nous continuerons sûrement à rester dans cette incertitude. Nos mots sont, en réalité, très solitaires.
Malgré tout, nous nous sommes dit : « ça doit marcher », et nous avons osé franchir cette solitude. En pensant « sûrement » ou « sans doute », nous avons obtenu une autre faculté : l’« imagination ».
Nous vivons de cette manière, en croyant à ce que nous ne pouvons pas vérifier. Parler, c’est franchir la solitude, c’est donc avoir l’espoir.
Pour ceux qui se trouvent en plein milieu d’accidents désastreux, que pouvons-nous faire ? Rien, nous sommes trop loin. Autant de raisons pour renoncer. Cherchons tout de même. Ça a l’air difficile, mais essayons quand même. Rappelle-toi, c’est justement ce que nous n’avons jamais cessé de faire : continuer en nous disant que ça devait marcher, sans pouvoir nous en assurer. C’est exactement ça, avoir l’« espoir ».
Je parle à haute voix, je m’adresse à toi, je continue à le faire, j’ai pensé à toi aujourd’hui encore. J’ai imaginé. Je suis si loin, mais j’ai quand même pensé à là-bas. J’ai essayé de trouver des mots pour ma pensée. Tu ne les entendras peut-être pas. Mais si, bien sûr que tu les entendras, puisque c’est ainsi que nous sommes devenus « humains », en croyant justement à ça.
Je voudrais être à tes côtés, à côté de ton chagrin, de ta tristesse, de ta joie, de ton sourire. Je continue à le vouloir.

2011年10月31日月曜日

たしかめられないことをしんじること

「希望」とはなんだろう。それは、たしかめられないもの、めにみえないものを、それでもしんじること。そして、それは、ぼくたちの「ことば」そのもののこと。
ぼくたちは、ひとりでいるのをやめて、だれかとともにいきることにした。あめふりの日に、やねをつくって、だれかと一緒にそこにはいって、そしてだんだんとそのやねをおおきくしていった。やねはいま、世界中にひろがっているはず。
ぼくたちははなしはじめた。最初はきっとたどたどしく、そしていまはとてもすらすらと。でも、そんないまでも、ぼくたちは、自分のつかうことばの意味が、まわりのみんなとおなじなのかどうか、たしかめられないし、そしてこれからもきっとたしかめられないまま。ぼくたちのことばは、ほんとうはとても孤独なもの。
それでもぼくたちは、「いや、きっとだいじょうぶ」と、その孤独をいっきにふみこえた。「きっと」「もしかしたら」とおもうことで、ぼくたちにはもうひとつのちからがそなわった。「想像力」。
ぼくたちは、そうやって、たしかめられないものをしんじながらいきている。はなすことは、孤独をとびこえること、だから希望をもつことなんだ。
とおくでおこったかなしいできごとのただなかにいるひとに、ぼくたちはいったいなにができるだろう。どうせなにもできない、とおすぎる。あきらめる理由はいくつでもみつけられる。できるかもしれないことをさがす。だめかもしれないけど、やってみる。おもいだして。それ、ぼくたちがずっとやってきたこと。たしかめられないけど、きっといけるとおもってつづけること。「希望」をもつこと。
こえをだすこと、きみにことばをかけること、かけつづけるのをやめないこと。きみのことをきょうもかんがえた。想像した。ぼくはこんなにとおくにいるけれど、それでもかんがえた。かんがえたことをことばにしてみた。つたわらないかもしれない。いや、きっとつたわる。そう信じることで、ひとは、「人間」になったんだから。
きみのかなしみ、きみのくるしみ、きみのよろこび、きみのえがおのそばに、ぼくはいたいとおもっている。おもいつづけている。

2011年10月30日日曜日

生の鎮魂と祝祭 –  劇団VOGA 第8回本公演『Ato-Saki』をみて


戦争をあつかった芸術作品は、「反戦」がメッセージである、と普通なってしまうので、ぼくはその点にいつも多少の違和感をもっていた。もちろん、こころざしはすばらしい。おおいにこえをあげてさけんでゆかなければならないことだ。しかし、それはいったい芸術のしごとなのか。「チベット解放支援ライブ」とか、「原発反対アートフェスティバル」などがあるたびに、ぼくはそうだそうだ、とおもいながら、でもやっぱり、芸術家はそんなことをする時間があったら、もっとみずからの芸術の切磋琢磨に労力と感性をそそぐべきであり、「片手間」以上にそんなことをやってはいけない、と思っていた。メッセージを直接つたえるのは、言論、そしてそれに特化した目的で活動する者たちのやくわりであり、芸術は、その芸術表現そのものによって、人々を(そうしたければ)啓発すればよいはず。そう思いながらも、クラッシュの徹底した社会主義やソウルフラワーユニオンの独自の活動のしかたにはやっぱり好感をもち、応援したいきもちは満々で、ぼくはなんとか、その違和感にそのうちきちんとおりあいをつけなければならないとおもっていた。
ヴォガの戦争をテーマにした作品『Ato-Saki』の再演をみて、こういう疑問自体が、きわめて「うけて」的なものであることにきづかされた。芸術の表現の基本になにがあるか、ということなど、「うけて」はかんがえないからだ。ヴォガにはいろいろなことに気づかせてもらっている。借金がまたふえてしまった。そのことについて、わすれないうちに、いまかいておく。
Ato-Saki』は、「いきる」という行為が、およそぼくたちがおもいつくすべての動詞によって構築されているものであることを伝えている。それが、この芝居のもっとも中心的なメッセージであり、太平洋戦争の帰還兵をめぐるこのものがたりそのものは、(もちろん極論だが)そのために必要とされたアレゴリーである、とぼくはいいきりたい。ラストシーン近くで、出演者がほぼ総出となるスペクタクル的な舞台で、日下部正造(草壁カゲロヲ)を中心にすえた登場人物たちが、音楽に呼応してさまざまな動詞を終止形で口にする。「愛する」「しんじる」「うらぎる」。かんがえてみれば、「名詞」と「動詞」は、ぼくたちのことばを構成する中心的なアイテムだけれど、名詞が多様な事物ことがらに言及するものであるのにくらべて、動詞があらわすもののおおくが、人間の行為にかかわるものである。つまり、ほとんどの動詞は、人間を主語にたてることができるものばかりであるということだ。ただものの「うごき」をしめすのであれば、たとえば「(あめが)ふる」のように、人間を主語にしえない動詞がもっとたくさんあってもいいはずなのに、そういう動詞は希少である。これはどういうことか。つまり、およそぼくたちのまわりのものをうごかすのは人のしわざであるとぼくたちが、すくなくとも言語上はとらえているということであり、逆にいえば、人間の生とは、およそそのようなさまざまな動詞によって描写されるべきものであるということ。
そのようなことは、実際に芝居の中で、軍医高畑の口から発せられる。ある夜、主人公(といっても芝居のその段階ではまだ主人公として本格的にうごきだしているわけではない。前半では、日下部の存在は、おそらく意図的に一上等兵として、そのほかの兵士たちとともにえがきだされている)日下部がふと目をさますと、高畑ひとりが火のあかりでなにかによみふけっているのをみつける。日下部がたずねると、高畑は詩集をよんでいるのだとこたえ、いまぼくがかいたこととほぼおなじようなことを日下部につげる。芝居のもっとあとになって、そのとき高畑は自作の詩を日下部にきかせ、それがどういうものであったかということがあかされるが、ここではそれにふれない。
「いきる」こととはすべての「動詞」がかたることをおこなうこと、つまり「うごく」ことである。そこにふくまれるものであれば、よいものであれわるいものであれ、人間はすべてそれらをひきうけて「うごく」ということをしなければならない。それこそが「生」であり、「生」のみがもたらす祝祭である。そして、ぼくたちはそれをさまたげるすべてのものにあらがわなければならない。端的にはそれは「死」であり、いたずらにその「死」を大量にもたらす「戦争」は、ぼくたちの「生」をそれきり中断させてしまう最たるものである。
日下部はそのときは上記の高畑の言をただきくだけだが、片足で、つま町子のもとのにもどってきたかれは、みずからの「帰還」がつかのまのゆめのようなできごとであったことをさとった彼女のまえで、自分が高畑からまなび、みずからさとったことをちからのかぎりにうったえる。そしてこれは芝居である以上、その日下部のことばは、ぼくたち自身にむけられたものであることはいうまでもない。
高畑は詩によってそれを日下部につたえた。詩とはいうまでもなく芸術、ことばの芸術である。そこでぼくたちはこの芝居がほんとうにつたえているものをしることになる。芸術というのは「生」のよろこびの表現である。ぼくたちが、だれかにたいしてなにかを表現すること、それはすなわち「生」の実践であり、その実践にもっともつよい感性をもってのぞみ、それを祝祭的なたかみにもちあげることこそが芸術の実践。それが、いかなる人間のほかのおこないによっても、たやされることがあってはならない。とにかく「いきる」こと、それが唯一でありすべてであるということ。「美」とか「愛」とか、そういうものよりもまえに、いきて、うごくこと。いきられて、うごけること、それがぼくたちになによりもまずなければならないものであるということ。そして、そんなばかみたいにあたりまえのことが、たとえば戦争によってさまたげられる。破壊される。そしてそれは戦争だけによるものではない。この公演の再演が、東日本大震災、その後の原発事故のあった2011年という年におこなわれたことが偶然でないことは、作・演出の近藤和見自身がそうはっきり述べている。「東日本の震災・原発問題・成熟しない大人を代表するかのような政治家。一人ひとりに圧しかかる現状。折に、なぜ自分が書いた【AtoSaki】の人物たちが頭に浮かんだ。彼らには、いま、語りたい言葉があるのではないか。」(フライヤより)
この芝居が「戦争」をテーマにしていることはあきらかであるし、それをテーマにしたからこそ表現できたさまざまなことがあることはいうまでもない。でも、そのことそのものだけであれば、おそらくこの作品の典拠のひとつである奥崎謙三の著述と映画『ゆきゆきて神軍』などで、その多くが、この作品と共通する視点からのべつくされていることである。『Ato-Saki』のほんとうのテーマは、「生」をすべての資源とする人間のすべてのいとなみ、とりわけ芸術が、そこでどういうたちいちにあるのかということをこそつたえていたのではないだろうか。だからこそ、近藤は震災や原発を素材にあたらしい作品をかくのではなく、この『Ato-Saki』にふたたびかたらせることが必要だとおもったのではないだろうか。
ここまでかいたところで、最初にかいた、ぼくがこれまでもってきた「違和感」とのおりあいのはなしにかえることができる。芸術は戦争に敏感であるのは当然である。なぜなら、戦争は、芸術のよりどころであるとともに祝祭化の主題である人間の「生」そのものをおびやかすもっとも危険で、破壊的なものであるから。ほとんどすべての芸術表現は「生」をいわうものであるはずである。そしてこの作品『Ato-Saki』も例外ではない。『Ato-Saki』がつたえるものは、きっと表現するがわにとってはとてもあたりまえなのかもしれないが、うけてが実際にはなかなか気づきにくいところ。「戦争の悲惨」を、それ自体に特化してうれうのではなく、「生をおびやかすもの」そのものについて、芸術表現そのものをもちいて警鐘をならすこと。生にかかわるすべての動詞的ことがらへの祝祭である。そして、「戦争」は、いうなればこれらすべての動詞のいとなみを封印し、かわりに唯一の動詞によっておきかえてしまう。ぼくたちの「動詞」から、唯一なくなってしまったほうがよいもの=「ころす」によって。
フライヤによると、初演時のこの作品のテーマは「死者から生者への鎮魂歌」であるという。「死者」が「生者」を「鎮魂」するというこの逆説はなにを意味しているのだろう。これは、「生者」たちが、「生」そのものを満喫するかわりに、みずからその生をむしばむことばかりしていることの隠喩ではないだろうか。「死者」には当然ながら100%剥奪された「生」の動詞的発現のすべてを、「生者」そのものが実践するどころか、みずから破壊しようとしている、片足の帰還兵のすがたをかりてまで、死者は生者にそれをはっきりしらせにこなければならなかった。そうでなければすべてが「鎮魂」の対象になってしまうということ。
こんなおもいテーマを、ヴォガの芝居は「アングラ反戦演劇」のような手法とは対極にある、洗練された舞台づくり、演出、音楽、脚本のもとに、一大スペクタクルとして、つまりエンターテイメント作品として完成させた。ラストシーンで、ぼくはぼろぼろなみだをながしながら、役者たちといっしょにからだをうごかしていた。一級のパフォーミング・アーツが、そこにちゃんとあり、それは鎮魂されながら、同時にそこにうみだされているのだということを、ぼくはきっとほかのすべての観客とともにかんじることができた。
ほかにもかきたいことはたくさんある。すこしは批判したいこともあるけれど、とりあえず鑑賞直後の感想としてはそんなところ。
http://www.lowotarvoga.net/ 

2011年10月9日日曜日

ハラカミ・レイ


東京で、日曜日のひるまに時間がすこしできた。
お台場にある日本科学未来館ということろにあるプラネタリウムで以前から上映されていた「暗やみの色」という作品が、その音楽を担当したハラカミ・レイの急逝(7月末)をうけて上映期間を11月まで延長しているというはなしをきいていたので、ひさびさのお台場にいってみることにした。
ハラカミ・レイの音楽は、99年ぐらいから、すきでよくきいていたが、かれが突然なくなるまで、自分にとってかれの音楽のもつおもみがこれほどのものだったのかということに気づいていなかった。いまききなおしてみると、ほんとうは全然そんなことはないのだが、なんとなく「クラブ系」の音楽ということ、そしてそういう音楽にたいして(結構きくくせに)もっていた「ほんとの音楽じゃない」的な、じつはとても保守的な意識から、きっとぼくは、「ハラカミ・レイがすき」というものいいを、自分のなかでさえおもてにだすのをすこしはばかっていたのかもしれない。ぼくは、ハラカミ・レイがすきだ。本人がなくなって、そんなことをいいだすなんてずるいし、むごい。そしてかなしい。
ハラカミの音をここでことばでどうこういうのは、たぶんしなくていいこと。Youtube “rei harakami” 、これがかれのおとだ。この独特の音色、リズム、ディレイ、メロディ、リリシズムに、数々のリスナーだけではなく、多くのミュージシャンが魅了され、「晩年」(41歳というみじかい一生に、このことばはふさわしくない、その意味でのカギ括弧)は、矢野顕子とのコラボレーションである「ヤノカミ」の活動がしられていた。矢野をして、「世界遺産」といわれたハラカミは、ほんとうに、日本の音楽の「遺産」になってしまった。
さ きに、「クラブ系の音楽はほんとうの音楽じゃない」という偏見にふれたが、ハラカミはまさに、きっとおおくのリスナーの耳に、「クラブ系の音楽がほんとう の音楽」であることをしらせてくれた音楽家ではないかとおもう。かれのオリジナル作品にはほとんどボーカルがなかったが、まるで、その、こえがきこえてき そうな、シンプルなのにあまりにも表情ゆたかな「うたごえ」にききほれて、ぼくはきっとことあるごとにハラカミの音楽をきいていた。二階堂和美やUAと の共作をきいていても、それは、彼女たちの個性的なうたごえの「うしろ」にあるものではなく、こえをやさしく、あたたかくつつみこむ毛布のようなおとだっ た。ハラカミの音は基本的に電子音(楽器業界の友人の話では、ここ数十年の電子楽器史上でも、とても「中途半端」な時期の機種のみで、それをまさに「職人 芸」的にあやつりながら、あのだれにもかれのものとすぐにわかるおとをつむぎだしていたということだ)だから、それはいってみれば「電気毛布」なのだが、 これはいったいどんなサーモスタット?というような自然なあたたかさ、そして同時にそれはけして「アコースティック」のそれではないことによって、ASA CHANG & 巡礼のような特殊なおとづくりの音楽から、くるりのようなポップス的なそれとも、絶妙にマッチすることができる音だった。

そんなわけで、ぼくは7月 末からいまもずっと、面識もなかったハラカミミの「喪中」からぬけだせないでいた。だれかとカフェで、ハラカミしんだよね、というはなしをしながら、まる で知人のようになんだかなきそうになってしまう。こんなことははじめてである。これはよくない、この喪からぬけなければ、そんなことをおもいながら、お台 場をめざした。ハラカミの音楽にいろどられた星の風景をみて、原田郁子の朗読する谷川俊太郎の詩をきいて、せいぜいないてやろう。くらやみだし、それにき ている人のなかにはきもちをわかってくれるひともいるだろうからだいじょうぶ。ハラカミは、そうはいっても細野晴臣とか坂本龍一のような人ではないから、 延長上映しているといっても、そこそこ閑散としたシアター内で、ゆっくり喪に服そう、と、ゆりかもめにゆられながら、iPodで「天然コケッコー」のサントラをききながら、なくきまんまんで未来館に到着した。
日 曜日のお台場のにぎやかなところを2駅ほどとおりすぎたところにある未来館のまわりには、中心からはなれたおかげで、すこしはのんびりした雰囲気がただ よっていたが、エントランスをはいって上映予定をチェックしてみると、「暗やみの色」はすでに満席だった。もちろん、ぼくとおなじようなハラカミ・ファン というのもあるのだろうが、日曜日、しかも連休のなかびの未来科学館である。家族づれで「プラネタリウムをみよう」というひとたちがきっとたくさんつめか けている。予想するべきだった。
大 阪から、わざわざそのためにではないとはいえ、わざわざここまできたのだし、ハラカミ・レイとか知らない家族づれもきっといっぱいなんだから、ちょっとぼ くひとりぐらいいれてほしい、といいたい気分になったが、こうして、日曜日の午後に、家族づれやそれ以外のたくさんのひとびとが、満席のドームシアターで ハラカミの音楽をききながら「暗やみの色」をみる、というのは、ちょっといいことかもしれないとおもった。
ハ ラカミは、日本のポップ・ミュージック史上にどうしてものこらねばならない音楽家である。それをハラカミのハの字もしらない、ましてかれがしんだこともし らないこどもたちがききながら、とおいほしの世界におもいをはせること。あるいはぼくのようにハラカミの音楽がすきなカップルが、こどもをとなりにすわら せて、プラネタリウムをみながらなみだぐむこと。そういう光景を想像してみる。
「こどものころに、お台場でプラネタリウムをみたんだけど、そのときにきいて音楽がわすれられなくて、しらべてみたら、ハラカミ・レイという、当時おしまれな がら他界した音楽家がつくったものだということをしり、ぼくもこんな音楽をつくる人になりたいとおもいました。」という未来の音楽家がうまれるかもしれな い。
 「なくきまんまん」をくじかれて、すごすごとゆりかもめにゆられて汐留で下車、はれた日曜の午後のそらを、写真のように近未来的建造物がきりとっていた。 ぼくはあいかわらず「喪中」のままである。
ところで、かれの死の直後、なんでもいいからかれのことをもうちょっとしりたい、とおもいながらウェブをみまくっていたら、ハラカミ自身が、自分の音楽のルーツのひとつとして、ポール・マッカートニーのこの曲をあげていた。
匿名できかされたら、これハラカミでしょうというよりなさそうな音源。これをもって、ハラカミはポール・マッカートニーのぱくりであるというのは、あまりにも安易である。「ポール・マッカートニー II」という、彼のソロの中で異彩をはなつアルバムに収録されているこの10分をこえる曲は彼にとっては、ちょっとやってみた的な特殊な曲で、ハラカミはこれを引用したのではなく、これをルーツに、ポール・マッカートニーがここでやめておいたものをみごとに、自身のサウンドに昇華させてしまったのだ。音楽は、こうして複数の感性をとびひしながら、あたらしいおとになってつむぎだされてゆく。ハラカミ・レイがおまけでおしえてくれたこと。

2011年9月19日月曜日

想像力

「常識」といわれていることの多くは、実はそれほど普遍性のあることではなく、「カゼをひいてるときはおフロはだめよ」という「常識」の根拠はなんだった けと思いかえせば、「おかあさんがそういっていた」だけ、そんなことのほうが意外に多かったりする。  それでも、このような根拠を必要とせずに「そうだ」とうなずける普遍的なこともないことはない。「戦争はすばらしい」と、ぼくたちは口にできないだけで なく、かなりの悪人でも、これをこのままいいきってしまうのは困難である。たとえいえたとしても、「戦争は(それによって一気に地下資源が確保できるか ら、それじゃあいけないってわかってるけど)すばらしい」といような譲歩つきのいいかたになるはずで、これが「譲歩」であるということこそが、「戦争はす ばらしい」が普遍的におかしいことをうらづけている。  戦争はいやだ、避けるべきだとわたしが思うのは、「戦争は」という主語には、「痛い」、「苦しい」、「悲しい」、「おそろしい」、「こわい」、その他さ まざまなネガティブな述語のほとんどが、ここでは譲歩なしで続けられる、そういうものだからである。だからこそ、このことをこんなめだつところにはっきり 書いても、政治的な発言とも、かたよった考えかただといわれることもないのだ。  しかし、それでも戦争はおこる、毎日人が死ぬ。なぜか、そのように思っているわたしたち常識人の努力がたりないからである。なぜか、(ひとつの理由とし ては)わたしたちに「戦争」についての想像力が圧倒的に欠けているからである。  戦争は、国際政治の一局面の様式であり、歴史段階の移行のためのひとつの「手続き」である...これを冷淡だというなら、歴史教科書はすべて冷淡だとい うことになってしまう。そしてまた、このようなとらえかたが可能であるからこそ、わたしたちはそこで実際におこっていることを想像することを怠る。人が大 勢死ぬこと、血をながすこと、のたうちまわること、泣きさけぶこと、悲嘆にくれることを。  なぜ想像できないのか。したことがないからである。表面しか見せられなければ、そのむこうはすべて看過されてしまう。「いま・ここ」の自分だけがどんど ん大切になってゆく。でも、いやな苦しいことをリアルに思いえがけるような想像力なんてほしくないと、あなたはいうだろうか。ちがう、そのような想像力に よって、わたしたちは、人々が生き、笑い、陽気にさわぎ、うたい、おどり、喜びにあふれることもまた、こころから祝福できるようになるのだ。 「人をわかろうとすること」そして、たんに「いま・ここ」の自分や自分のまわりの人にかぎらず、あらゆる時代、世界のいたるところの人のことをなんとか わかろうとすること。「想像力」をやしなう。「そうはいっても諸事情から避けがたい」大量 殺人などありえない、これはおかあさんがいってたわけじゃないけれどぜったいそう、と自信をもてるようになるために。

さがすこと

最近ものをさがさなくてよくなった。強力なサーチエンジンのおかげで、どこだろう、なんだっけとおもう前にみつかってしまう。そして、みつかるけれど、すぐに忘れる。「ググる」の意味は、「さがさずみつけて、すぐ忘れる」こと。
さがさなくてよくなる、というのは、ようするに「野性」を放棄することだ。ぼくたちがもっと野性だったころは、きっと日がなさがしまわるのが日課であっ たはずだ。身近な野生動物を想起せよ。スズメがあちこちとびまわって、公園や軒先でぴょんぴょんしているのは、別にあそんでいるわけではない。たいてい は、生きるためのいろいろをさがしている。ゴキブリがシンクの上に突然あらわれるときも、ただ栄養をもとめて思わずそこまでのぼってきてしまったのであ る。悪気ゼロ。ときおり里におりてきてしまうヒグマも、やっぱりさがしものをしていてつい、ということ。あとは、例のあのうたをちょっと替え歌にしてうた いながら、ようするにやつらはみんな「さがす」ものたちだということを思い出せばよい。ミミズだってカエルだってアメンボだって。
そのいっぽうでぼくたち現代人。ちょっと前まで、腹へったよねと冷蔵庫を物色していたのが、そこをすどおりしてコンビニにいくようになった。書店でなん かおもしろそうなもの、とうろうろしていたのに、アマゾンにいったら「大久保朝憲さんにおすすめの本があります」、みてみるとたしかにおもしろそう。あん ただれ?なんでわかるの?待ちあわせのカフェはこの通りだったっけとうろうろしていたら、ともだちの携帯は3G。こういうのも全部「さがす」といえばさが してるけど、なんかちょっとちがう。だれかに代わりにさがしてもらってるかんじ。
「してもらってるかんじ」は、実はあたりまえのこと。だって「野性」をやめるというのは「飼い馴らされる」ことだから。飼い主は資本主義で、左翼の人は それを昔から言ってたのを、ちょっと忘れかけていた。そのときはインターネットとかなかったし。だが別に、野性にかえろうぜといいたいのではない。それ は、40年以上前に、ヒッピーの人が似たようなことをやりかけて、やめた。
さがさなくなるということは、みつけなくなるということだ。みつけるものものないのに、どうして歩いているのだっけとふとたちどまる。ぼくはまだ生きて いるかと頬をつねってみると、痛くない。もうどうしようもないくらいに手足をしばられているのに、そのことにも気づかない。世界だと思って目をこらしてみ ていたのは、奥ゆきのないただの書き割りの風景だった。起きてください、終点ですよ。
とても単純なこと、自分でさがして、なくて、またさがし て、みつけて、ほほうとおもい、心がうごき、満足し、あるいはまだたりなくて、またさがして、さがしてもみつからず、でも次第に、みつけることよりも、さ がすことそのものになんだか「意味」のようなものがみえてくること。頬をつねらなくても、胸がさわいで、きりきりしたり、わくわくしたりすること。ほんと うは、そっちのほうが「文明」的。それでみんないままでやってきた。そういう単純なことを、きっとぼくたちはとても簡単に忘れてしまえる。それがちょっと ヤバいということ。
「文明」が進むのがいいのかどうかはむずかしくてわからないけれど、すくなくとも、ぼくたちはだれひとりとしてだれかのペットではないはずだ。飼い馴らそ うとするほうによっかからないで、自分でさがすこと。ちゃんと世界とつきあうこと。すぐ忘れないこと。サーチエンジンはただのきっかけしかくれない。みつ けるものはまだまだある。
※この文章は、劇団ロヲ=タァル=ヴォガ結成10周年記念公演【新青年】(2007年)フライヤに寄稿した文章 http://www.lowotarvoga.net/shinseinen/text01.htmlをもとに、大幅に加筆・修正したものです。芝居と かもいいですよ、忘れものを思い出しますよ。)

「希望」について

東日本大震災による被災から5か月たった宮城県女川町を、当地出身の知人をたずねておとずれた。震災被害の実情の一部を、自分の目でたしかめるのが目的 だった。すでに報道されている通り、町の大部分が津波で壊滅し、復興のめどもたっていない。自然の力の前では、人間がつくりあげた文化・文明など、文字通 りひとたまりもないのだ、ということを思いしらされると同時に、「自分の原風景を失った悲しみは形容しようもない」という知人のことばに、なにもかえすこ とができない。かなしむ、いたむ、同情する、そんな日常の感情のストックは、なんの役にもたたない。
5か月たったその場所には、いまだにたくさんのがれき、横倒しになって破壊された建物などがそのままだが、それでもその一部には雑草が生い茂り、地盤沈 下によって冠水したアスファルトの道路を水底にして、無数のさかながおよぎまわる。20 mにおよぶ津波があらいつくしたこの場所にいきるこのさかなたちはいったいどこからきたのだろう。
3日間の滞在の最終日にちょうど開催された、女川町全体の夏祭りに参加させていただいた。人口1万人の町の住民のうち、830人が死亡・行方不明となっ ている。その日の午後2時46分、その人たちへの追悼のことば、あるいは未来への希望のことばをしるしたたんざくをさげた830個の風船が参加者たちの手 からいっせいに空にはなたれた。西の空高く、みるみるあがってゆく色とりどりの風船を、町のひとたちは歓声をあげてみおくり、気がつくと、女川伝統の和太 鼓轟会の太鼓のひびきがきこえていた。
自然は容赦なく、何にも頓着しない。だから自然そのものには絶望もないし希望もない。人間は、「人間」となって雨風をしのぐ屋根の下に生き始め、たがい にかかわりあって生きるようになって以来、こつこつと「文化」をきずき、自分以外の人を思い、なんども自然にはねとばされ、なんども絶望し、そしてそれと 同じ回数の希望をたぐりよせて、これまで生きのびてきた。
アスファルトの水底を泳ぎ回る小さなさかなたちがいとおしい、壊れた家屋で、露天にむきだしになった浴槽から容赦なくおいしげる雑草がちょっとこわい、 と、わたしたちは勝手に自然をたたえたりこわがったりする。でも、ちょっと無理をして、それら全部を、「生命力」とよろこんでみよう。そしてそれらに「希 望」をたくしてみよう。そのとき、「生命力」も「希望」も、そんなことばでそんなふうに考えることができるのは、当然だが人間だけだということも思いだし てみよう。「希望」という、人間の文化。人間の力。そのことに、まさに「望みを賭ける」しかない。それを私は女川町の人たちにいいたいのではなく、女川町 の人たちにおしえてもらった。そういうこと。
町内で震災による大きな被害をまぬかれて、自店舗で営業を再開していたおそらく唯一の食料品店である「阿部とうふ店」の店先に、花の種が何種類も棚にな らべて売られていた。自然がけちらかした場所に、性懲りもなくまた種をうえること、「文化 culture」とはきっとそういうものだ。