2011年9月19日月曜日

想像力

「常識」といわれていることの多くは、実はそれほど普遍性のあることではなく、「カゼをひいてるときはおフロはだめよ」という「常識」の根拠はなんだった けと思いかえせば、「おかあさんがそういっていた」だけ、そんなことのほうが意外に多かったりする。  それでも、このような根拠を必要とせずに「そうだ」とうなずける普遍的なこともないことはない。「戦争はすばらしい」と、ぼくたちは口にできないだけで なく、かなりの悪人でも、これをこのままいいきってしまうのは困難である。たとえいえたとしても、「戦争は(それによって一気に地下資源が確保できるか ら、それじゃあいけないってわかってるけど)すばらしい」といような譲歩つきのいいかたになるはずで、これが「譲歩」であるということこそが、「戦争はす ばらしい」が普遍的におかしいことをうらづけている。  戦争はいやだ、避けるべきだとわたしが思うのは、「戦争は」という主語には、「痛い」、「苦しい」、「悲しい」、「おそろしい」、「こわい」、その他さ まざまなネガティブな述語のほとんどが、ここでは譲歩なしで続けられる、そういうものだからである。だからこそ、このことをこんなめだつところにはっきり 書いても、政治的な発言とも、かたよった考えかただといわれることもないのだ。  しかし、それでも戦争はおこる、毎日人が死ぬ。なぜか、そのように思っているわたしたち常識人の努力がたりないからである。なぜか、(ひとつの理由とし ては)わたしたちに「戦争」についての想像力が圧倒的に欠けているからである。  戦争は、国際政治の一局面の様式であり、歴史段階の移行のためのひとつの「手続き」である...これを冷淡だというなら、歴史教科書はすべて冷淡だとい うことになってしまう。そしてまた、このようなとらえかたが可能であるからこそ、わたしたちはそこで実際におこっていることを想像することを怠る。人が大 勢死ぬこと、血をながすこと、のたうちまわること、泣きさけぶこと、悲嘆にくれることを。  なぜ想像できないのか。したことがないからである。表面しか見せられなければ、そのむこうはすべて看過されてしまう。「いま・ここ」の自分だけがどんど ん大切になってゆく。でも、いやな苦しいことをリアルに思いえがけるような想像力なんてほしくないと、あなたはいうだろうか。ちがう、そのような想像力に よって、わたしたちは、人々が生き、笑い、陽気にさわぎ、うたい、おどり、喜びにあふれることもまた、こころから祝福できるようになるのだ。 「人をわかろうとすること」そして、たんに「いま・ここ」の自分や自分のまわりの人にかぎらず、あらゆる時代、世界のいたるところの人のことをなんとか わかろうとすること。「想像力」をやしなう。「そうはいっても諸事情から避けがたい」大量 殺人などありえない、これはおかあさんがいってたわけじゃないけれどぜったいそう、と自信をもてるようになるために。

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