2011年9月19日月曜日

さがすこと

最近ものをさがさなくてよくなった。強力なサーチエンジンのおかげで、どこだろう、なんだっけとおもう前にみつかってしまう。そして、みつかるけれど、すぐに忘れる。「ググる」の意味は、「さがさずみつけて、すぐ忘れる」こと。
さがさなくてよくなる、というのは、ようするに「野性」を放棄することだ。ぼくたちがもっと野性だったころは、きっと日がなさがしまわるのが日課であっ たはずだ。身近な野生動物を想起せよ。スズメがあちこちとびまわって、公園や軒先でぴょんぴょんしているのは、別にあそんでいるわけではない。たいてい は、生きるためのいろいろをさがしている。ゴキブリがシンクの上に突然あらわれるときも、ただ栄養をもとめて思わずそこまでのぼってきてしまったのであ る。悪気ゼロ。ときおり里におりてきてしまうヒグマも、やっぱりさがしものをしていてつい、ということ。あとは、例のあのうたをちょっと替え歌にしてうた いながら、ようするにやつらはみんな「さがす」ものたちだということを思い出せばよい。ミミズだってカエルだってアメンボだって。
そのいっぽうでぼくたち現代人。ちょっと前まで、腹へったよねと冷蔵庫を物色していたのが、そこをすどおりしてコンビニにいくようになった。書店でなん かおもしろそうなもの、とうろうろしていたのに、アマゾンにいったら「大久保朝憲さんにおすすめの本があります」、みてみるとたしかにおもしろそう。あん ただれ?なんでわかるの?待ちあわせのカフェはこの通りだったっけとうろうろしていたら、ともだちの携帯は3G。こういうのも全部「さがす」といえばさが してるけど、なんかちょっとちがう。だれかに代わりにさがしてもらってるかんじ。
「してもらってるかんじ」は、実はあたりまえのこと。だって「野性」をやめるというのは「飼い馴らされる」ことだから。飼い主は資本主義で、左翼の人は それを昔から言ってたのを、ちょっと忘れかけていた。そのときはインターネットとかなかったし。だが別に、野性にかえろうぜといいたいのではない。それ は、40年以上前に、ヒッピーの人が似たようなことをやりかけて、やめた。
さがさなくなるということは、みつけなくなるということだ。みつけるものものないのに、どうして歩いているのだっけとふとたちどまる。ぼくはまだ生きて いるかと頬をつねってみると、痛くない。もうどうしようもないくらいに手足をしばられているのに、そのことにも気づかない。世界だと思って目をこらしてみ ていたのは、奥ゆきのないただの書き割りの風景だった。起きてください、終点ですよ。
とても単純なこと、自分でさがして、なくて、またさがし て、みつけて、ほほうとおもい、心がうごき、満足し、あるいはまだたりなくて、またさがして、さがしてもみつからず、でも次第に、みつけることよりも、さ がすことそのものになんだか「意味」のようなものがみえてくること。頬をつねらなくても、胸がさわいで、きりきりしたり、わくわくしたりすること。ほんと うは、そっちのほうが「文明」的。それでみんないままでやってきた。そういう単純なことを、きっとぼくたちはとても簡単に忘れてしまえる。それがちょっと ヤバいということ。
「文明」が進むのがいいのかどうかはむずかしくてわからないけれど、すくなくとも、ぼくたちはだれひとりとしてだれかのペットではないはずだ。飼い馴らそ うとするほうによっかからないで、自分でさがすこと。ちゃんと世界とつきあうこと。すぐ忘れないこと。サーチエンジンはただのきっかけしかくれない。みつ けるものはまだまだある。
※この文章は、劇団ロヲ=タァル=ヴォガ結成10周年記念公演【新青年】(2007年)フライヤに寄稿した文章 http://www.lowotarvoga.net/shinseinen/text01.htmlをもとに、大幅に加筆・修正したものです。芝居と かもいいですよ、忘れものを思い出しますよ。)

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