ぼくたちは、ひとりでいるのをやめて、だれかとともにいきることにした。あめふりの日に、やねをつくって、だれかと一緒にそこにはいって、そしてだんだんとそのやねをおおきくしていった。やねはいま、世界中にひろがっているはず。
ぼくたちははなしはじめた。最初はきっとたどたどしく、そしていまはとてもすらすらと。でも、そんないまでも、ぼくたちは、自分のつかうことばの意味が、まわりのみんなとおなじなのかどうか、たしかめられないし、そしてこれからもきっとたしかめられないまま。ぼくたちのことばは、ほんとうはとても孤独なもの。
それでもぼくたちは、「いや、きっとだいじょうぶ」と、その孤独をいっきにふみこえた。「きっと」「もしかしたら」とおもうことで、ぼくたちにはもうひとつのちからがそなわった。「想像力」。
ぼくたちは、そうやって、たしかめられないものをしんじながらいきている。はなすことは、孤独をとびこえること、だから希望をもつことなんだ。
とおくでおこったかなしいできごとのただなかにいるひとに、ぼくたちはいったいなにができるだろう。どうせなにもできない、とおすぎる。あきらめる理由はいくつでもみつけられる。できるかもしれないことをさがす。だめかもしれないけど、やってみる。おもいだして。それ、ぼくたちがずっとやってきたこと。たしかめられないけど、きっといけるとおもってつづけること。「希望」をもつこと。
こえをだすこと、きみにことばをかけること、かけつづけるのをやめないこと。きみのことをきょうもかんがえた。想像した。ぼくはこんなにとおくにいるけれど、それでもかんがえた。かんがえたことをことばにしてみた。つたわらないかもしれない。いや、きっとつたわる。そう信じることで、ひとは、「人間」になったんだから。
きみのかなしみ、きみのくるしみ、きみのよろこび、きみのえがおのそばに、ぼくはいたいとおもっている。おもいつづけている。
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