2014年2月25日火曜日

こどもに漢字をどうするか


きのうのブログのつづきです。ながくなりすぎたので稿をこのようにあらためるのですが、では、おまえは自分のこどもが漢字などおぼえなくてもよいとおもうのか、ときかれたらどうするのかということです。
ぼくにはこどもがいないので、この点についてリアルにこたえることはできないのですが、どちらにしても難問。
でも、ぼくは、自分にこどもがいたら、きっと漢字をおしえるだろうし、一生けんめいおぼえるといいよというとおもいます。
その理由のひとつが、さきのブログで何度もかいたように、漢字はおもしろいから、漢字についての知識をゆたかにもつことで、いろんなことにつながるとおもうから。
もうひとつは、言語にかんするきまりごとは、共同体のきまりごとなので、ぼくひとりがどうこういったところでかわらず、ぼくのおもいをこどもにたくしても、こどもはそれではしあわせになれないということ。ソシュールは言語の「社会性」というのを強調したひとでもあるけれど、それです。いま漢字はいらないというのは、「反社会的」なことにしかならない。反社会的なことはそれだけでは別にわるいことではないけれど、こどもはそれで得をしない。だからおしえるしかない。
そのときのこどもにたいする説明は、ぶっちゃけ、いろいろ本心じゃないこともいうとおもいます。
そのうえで、こどもが18歳ぐらいになったら、ぼくはさきのブログにかいたようなはなしをして「どうおもう?」とこどもにきくでしょう。そして、そのこたえしだいでは、「こんなに漢字をたくさんおぼえないと日本語社会でいきていけないというのは、なんだかきゅうくつなはなしだよね」とかえしたりするかもしれない。
しごとで、そのぐらいの年齢のひとにフランス語を(外国語として)おしえています。そしてぼくは、この言語のなかにときどきある、ただ文法をややこしくするだけのような規則を「こんな規則なくてもいいし、多分なくすべきなんだけどね」といいながらおしえます。「ごめんね、でも、ぼくひとりがそれいってもフランス語はかわらんのよ」とかいいながら。で、それを平気でいうのは、かれらがそういうことをわかってくれる「おとな」だからです。だから、「言語ってこういうもんじゃないとおもうんだよね」というはなしもしたりすることもあります。こどもには、それではきっとうまくいかないから、すこしのあいだ、そういうはなしはしないでおく。
気づいたでしょうか。言語は制度なので、それ自体が権力的です。言語をまなび、習得することとは、その権力に屈することです。それによってのみ、ぼくたちは、その言語共同体のなかまにはいることができます。「恣意的」というのもよくいわれることです。そう、なぜそうなのかをとうことは、はじめから禁じられています。
だから、習得過程では、ちょっとどうしようもない部分がある。よしあしに関係なく、それをしないとはじかれる。
でも、だからこそ、ひとたびものにしたら、こんどはそれを解体(必要ならば)する主体に、みんなひとりひとりがなってゆけばよい。このおびただしい漢字を「日本語話者」というだけで強制するのは拷問だとおもうなら、そこから日本語話者を解放してやればよい、ということです。そしてその解放をかちとったあとでないと、ぼくたちは、漢字をしらないこどもやひとをしあわせにはできないということです。
でも、いつかようやくそんなときがきたとしても、ぼくはそれでも漢字をおしえるかもしれない。おもしろいから、勉強してごらん。
ただ、ピアノのレッスンのように、あきたり、いやがったりしたらやめさせればいいし、すきそうなら漢字の達人にそだてればいい。これは共同体の義務ではないので、自由に采配されること。
最後にひとこと。
知識は、それをもっていることを前提にされているひと(教師や、特定分野の専門家など)以外にとっては、ただ「すごくよくしってるね」という以上の、それでひとそのものの価値がはかられるようなものであってはいけない。知識をもつものが、それによって特権階級を構成しては絶対にいけない。すぐれた能力は、どんな能力でもすごい、とおもっていいけど、もっていないことがはずかしい、とおもうような能力はない。ひとは、なにもなくても十分にうつくしいから。
すこしはなしがそれているとおもいますか。ぼくのなかではひとつのはなしなのだけれど。
ながくならないように、ここでおわりますが、ことばがたりないかもしれません。また、かけることがあればかきます。よんでくれて、ありがとうございます。

2 件のコメント:

  1. ども、田中です。新しい記事ありがとうございます。
    確かに、言語は権力そのものですね。漢字は古代中国で発明され言語の違う周辺各国でも使用されることで強力な中央集権体制の根幹を成す情報インフラとして機能しましたし、いわゆる英語圏は、かつての大英帝国の勢力圏ほぼそのままですしね。
    けれど、だからこそ便利なんですよね〜。人類にとって便利とは、常に自由の敵なんでしょうか(笑)

    さて、先の投稿での「ことばのバリアフリー」についてなんですが、私もチョット考えてみました。

    ブログタイトル下のご説明にある通り「音よみの漢字しかつかわず、訓よみはできるだけひらがなそのまま」ということなんですけど、それだと音よみの漢字はそのまま残ってしまいますよね。
    そもそもバリアフリーを目指されるとすれば、何がしかでも漢字が文中にあるとすれば、それは既にバリアフリーでないことになってしまいませんでしょうか?
    例えて言えば、長い階段をバリアフリーにしようとスロープに作り替えたとして、けれどたった一カ所だけ、どうしても車いすで乗り越えられない段差が残ったとしたら、言い切っちゃうとそのスロープは全てが無駄、ということになるかと思うんですけど。

    そこで、読みやすさはともかく訓よみの漢字はひらがなに開いても何とか意味は通りますのでそれはそれで良いとして、やはり漢語≒音よみの漢字を何とか和語的な意味表現で開かないことには、「ことばのバリアフリー」は成し得ないのではないかと考えました。

    漢字を読みだけでなく意味で開くということが、本実験のキモではないかと思うのですけれど、いかがでしょう?
    その点について格闘することこそ、「ことばのバリアフリー」を開発することになるのではと感じています。

    まあ、頭の中では漢字を使って考えておきながら、それをアウトプットするのに機械的な変換だけで済むとは思えませんしね。

    けれど、言うは易し行うは難しですから、どこまで上手くいくことなのか分かりませんけれど、実験ですから〜(^_-)
    そこで僭越ではありますが、こんな素人考えでしかありませんけれど試しにやってみました。
    もちろん音訓の違いや意味の誤り、誤字脱字あるかと思いますが、もし参考にして頂けそうなものでしたら幸いでございます。
    今後も研究、頑張ってくださいね。

    ↓まことに失礼ながら、今回の記事全文を使わせて頂きました。どうしてもうまく変換できそうにない漢字は、後ろに()で読みをひらがなで入れています。

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    こどもに漢字(かんじ)をどうするか

     きのうのブログのつづきです。ながくなりすぎたのでこのようにかきたすのですが、では、おまえはおまえのこどもが漢字(かんじ)などおぼえなくてもよいとおもうのか、ときかれたらどうするのかということです。

     ぼくにはこどもがいないので、このことについてリアルにこたえることはできないのですが、どちらにしてもむずかしいといかけです。

     でも、ぼくは、ぼくにこどもがいたら、きっと漢字(かんじ)をおしえるだろうし、とてもけんめいにおぼえるといいよというとおもいます。

     そのわけのひとつが、さきのブログでおおくかいたように、漢字(かんじ)はおもしろいから、漢字(かんじ)についてしっていることをゆたかにもつことで、いろんなことにつながるとおもうから。

     もうひとつは、ひとの言葉(ことば)にかんするきまりごとは、ひとのあつまりのきまりごとなので、ぼくひとりがどうこういったところでかわらず、ぼくのおもいをこどもにたくしても、こどもはそれではしあわせになれないということ。ソシュールはひとの言葉(ことば)の「社会性(しゃかいせい)」というのをつよくといたひとでもあるけれど、それです。いま漢字(かんじ)はいらないというのは、「反社会的(はんしゃかいてき)」なことにしかならない。反社会的(はんしゃかいてき)なことはそれだけではべつにわるいことではないけれど、こどもはそれでえるものがない。だからおしえるしかない。

     そのときこどもにたいしてとくことは、ぶっちゃけ、いろいろほんとうのこころからじゃないこともいうとおもいます。

     そのうえで、こどもが18のとしぐらいになったら、ぼくはさきのブログにかいたようなはなしをして「どうおもう?」とこどもにきくでしょう。そして、そのこたえしだいでは、「こんなに漢字(かんじ)をたくさんおぼえないと日本語(にほんご)社会(しゃかい)でいきていけないというのは、なんだかきゅうくつなはなしだよね」とかえしたりするかもしれない。

     しごとで、そのぐらいのとしごろのひとにフランス語(ご)を(ほかのくにの言葉(ことば)として)おしえています。そしてぼくは、このひとの言葉(ことば)のなかにときどきある、ただ言葉(ことば)のきまりをややこしくするだけのようなきまりを「こんなきまりなくてもいいし、おそらくなくすべきなんだけどね」といいながらおしえます。「ごめんね、でも、ぼくひとりがそれいってもフランス語(ご)はかわらんのよ」とかいいながら。で、それをおちついたふりをしていうのは、かれらがそういうことをわかってくれる「おとな」だからです。だから、「ひとの言葉(ことば)ってこういうもんじゃないとおもうんだよね」というはなしもしたりすることもあります。こどもには、それではきっとうまくいかないから、すこしのあいだ、そういうはなしはしないでおく。

     きがついたでしょうか。ひとの言葉(ことば)はひとびとのきまりなので、それそのものがひとのあつまりのもつつよいちからです。ひとの言葉(ことば)をまなび、みにつけようとすることは、そのひとのあつまりのもつつよいちからにくじけることです。それによってのみ、ぼくたちは、そのひとの言葉(ことば)をつかうひとたちのなかまにはいることができます。「恣意的(しいてき)」というのもよくいわれることです。そう、なぜそうなのかをとうことは、はじめからしてはならないときめられています。

     だから、ひとの言葉(ことば)をおぼえるときには、ちょっとどうしようもないところがある。よしあしにかかわりなく、それをしないとはじかれる。

     でも、だからこそ、ひとたびものにしたら、こんどはそれを(そうしなければならないならば)ときほぐす主体(しゅたい)に、みんなひとりひとりがなってゆけばよい。このおびただしい漢字(かんじ)を「日本語(にほんご)をはなすもの」というだけでいやでもやらせるということはこころとからだにくるしみをあたえることだとおもうなら、そこから日本語(にほんご)をはなすものをときはなしてやればよい、ということです。そしてその、ときはなしをかちとったあとでないと、ぼくたちは、漢字(かんじ)をしらないこどもやひとをしあわせにはできないということです。

     でも、いつかようやくそんなときがきたとしても、ぼくはそれでも漢字(かんじ)をおしえるかもしれない。おもしろいから、まなんでごらん。
    ただ、ピアノのレッスンのように、あきたり、いやがったりしたらやめさせればいいし、すきそうなら漢字(かんじ)をよくしったひとにそだてればいい。これはひとびとのあつまりのしなければならないことではないので、すきなようにきめておこなわれること。

    おしまいにひとこと。

     いろいろなことをしっていることは、そうであることがあたりまえにされているひと(ひとにいろいろなことをおしえるひとや、あるかぎられたひろがりのなかのことについてよくしっているひとなど)とちがうひとにとっては、ただ「すごくよくしってるね」というよりたかい、それでひとそのもののねうちがはかられるようなものであってはいけない。いろいろなことをしっているひとが、それによってえこひいきをうけるひとたちのあつまりをきずいてはけっしていけない。ひとのなにかをなしとげることのできるすぐれたちからは、どんなちからでもすごい、とおもっていいけど、もっていないことがはずかしい、とおもうようなちからはない。ひとは、なにもなくてもたらないことなくうつくしいから。

     すこしはなしがそれているとおもいますか。ぼくのなかではひとつのはなしなのだけれど。

     ながくならないように、ここでおわりますが、ことばがたりないかもしれません。また、かけることがあればかきます。よんでくれて、ありがとうございます。

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    あと別件で、ブログタイトルと付属の文章ですが、もっと小さい方がイイですよね、こちらも頑張ってくださいませ。
    でわでわ〜

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  2. 長文のコメントをありがとうございます。

    言語と権力については、すくなくとも2つの論点があるとおもいます。
    ひとつは、田中さんがおっしゃるような覇権としての権力、国家語としての言語の統一や、言語帝国主義による言語圏の拡大などです。

    もうひとつが、社会的規約としての言語が、個々人にふるう権力で、これは、その権力をふるう主体がもうすこしみえにくいものです。

    もちろん両者はむすびついていて、たとえば方言の禁止(沖縄など)などの施策は、覇権としての言語の権力性と、社会規約としての「これこそが日本語である」という言語の権力がいっしょに作用しているケースだとおもいます。

    また、すこしちがった視点として、母語話者が非母語話者にたいしてとりむすぶ権力関係というのもあります。非母語話者はどうしても「たどたどしく」はなしているようにみえ、逆にネイティブは「ペラペラ」ですから、そこにこどもとおとなのような(実際にはそうではないのに)関係がうまれがちです。

    そして、これが書記言語になるといっそうそうであるということ。ぼくはもう20年以上フランス語をつかっていますが、いまだにかくといっぱいまちがいます。自分でもなおすけど、それでもまちがいがのこる。あるいは、文法的にはまちがってないけど、自然じゃないいいまわしをしてしまう。ぼくには「直観」がないので、そういうことがおこり、「直観」は、ネイティブが特権的にもっているまさに特権です。漢字を十分にしっているというのもそう。非母語話者は、ちょっとむずかしめの漢字をかいただけでも「すごい、そんなんしってるの?」とほめられますが、それはまあ、「こどもあつかい」でもあるわけで、そこにネイティブの「余裕」=「おごり」がないとはいえない。

    だから書記言語は、漢字にかぎらずできるだけ単純にしたほうがいいというのが、いままでかかなかったもうひとつの理由で、ただこれも、ひろい意味での「バリアフリー」(母語話者と非母語話者のギャップの解消)ということでもあります。

    さて、ぼくの「実験」について、適確な指摘をいただきました。そのとおりです。ぼくはこの実験をはじめて以来、これが根本的な解決ではないことを自覚しています。田中さんの提案される、かっこがき方式についてもかんがえましたし、たまにつかうこともあります。ご提案のようにすることは、おそらくもっとも整合性のある解決の提案にはなるとおもいます。ただ、これはまだ、一般的な文書で簡単にうけいれてもらえる形式ではありません。

    そうなんです。ぼくが「実験」というのは、これがことばのバリアフリーの「実践」ではなく、こころみであるということを強調したいからなんです。

    現状のぼくのやりかたでは、おっしゃるとおり「どうしても車いすで乗り越えられない段差」がのこります。ただ、現状のぼくのやりかたは、いろいろクレームがつくものの、なんとかそのままおしとおすことができるし、ひとによっては、なれてくるといいかんじとおもってくれるばあいもあります。

    ぼくは、訓よみかんじをひらくことで、訓よみのかんじは、もしかしたら漢字でかかないといけない必然性がないんじゃないの?というといかけをできるのではないかとおもっています。いまのところ、音よみのものについては、それが漢字である必然性があります。漢字表記前提で日本語はかなり発達してしまったので、漢字以外で区別できない同音語もかずおおくあるのはご存じのとおりです。だから、そっちまでにひろげるまでに、まず、訓よみをひらくことで、日本語の書記言語が、もしかしたらそっちのほうが自然、とおもえるようにならないか、という実験をしてみているのです。そしてぼくが最初の実験台なのですが、はっきりいって、かなりその効果があります。いまやぼくは漢字で訓よみをかくほうがエネルギーがいりますから。

    音よみの漢字、漢語をどうするかということは、ぼくにとってはつぎの段階です。ことばのバリアフリーはゆめだけれど、まだまだゆめのいりぐりにさえたっていない、それはそのとおりです。でももうすこしゆっくりやってみようかとおもっています。

    お返事になっているでしょうか。でも、ぼくももっといろいろかんがえてみますね。

    それと最後に、これはぼくの研究対象ではありません(つまりこのテーマで論文かいたりしてないということ)。おなじ趣旨で研究しているひとは、まえのブログで紹介したましこ・ひでのり氏ほか、専門家が何人かいます。ぼくは、とりあえず「ことばのこと」にこだわる研究者のひとりとして、おもうことをやってみているという段階です。

    ありがとうございます!

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