2014年2月24日月曜日

ひらがながおおいこと:ことばがみんなのもので、自由なものであるために








ひらがながおおくて、かえって文章がよみにくいとよくいわれます。もちろんわかっているし、そうおもうひとにはわるいなともおもうのですが、ここ数年、ちょっとこういう実験をしてみています。よんでくれるひとには、それにつきあってもらわないといけないのですが、つきあってもらうこともふくめて実験。
基本方針は、訓よみの漢字をつかわないということです。音よみについてはいまのやりかたでは制限していません。まれにですが、よみにくい、意味がとりにくそうというときにはふりがなをつけたり、新聞のようにかっこがきしたりします。
理由をまず単純にいうと、ことばは、何千という規模のかずの記号をおぼえなければなりたたないようなものであってはならないとおもうからです。言語社会学者のましこ・ひでのり氏は、ぼくなどよりもっと徹底していて、全部ひらがなで学術論文もかいたりするようなつわものです。しかも「表音主義」といって、ことばを、発音するそのままでかくので、「わたしわ かんじぶんかに ちょーぜん とした たいど お しめしたい」(引用ではありません)と、一見とてもふざけたようなじづらで、がんがんかいているひとで、ひそかにおおいなる敬意をはらっています。さすがに、オールかなだとほんとうによみにくいので、ましこさんはアルファベットの言語がするような「わかちがき」を採用しています(いまのぼくの作例はわかちかたがまちがっているかもしれません)。
ぼくはそこまではできないし、ましこさんもそれだけで書記言語生活をいきているわけではありません。で、じゃあどうしようということで、自分のなかの法則として、訓は漢字にしないことにきめてやってみています(ときどきどちらかわからずまちがえたり、普通にうっかり漢字にしてしまったりもするけど)。
ことば、特に母語をはなす能力は、口頭言語については、ぼくたちがとくに教育や訓練をうけることなく習得できるすばらしい能力で、これは原則としてすべての人間にあたえられています。ことばがあるおかげで、ぼくたちはひとつのえものをあらそってころしあわなくてよくなり、おとなからこどもまで、きもちやかんがえやいろいろな情報をやりとりし、共有できるようになりました。とりあえずしりあいじゃないというだけでガーガーほえあっているイヌとかをみていると、ありがたいことです。
もちろん、ことばのおかげで人間の知性はどんどん発達して、よけいなものもたくさんつくってしまいました。だけどきっとそれをのりこえるためのものをつくるのもきっと人間のちからだと信じています。がんばってほしいものです。
ことばは、だから当然のことながらみんなのものです。おなじ言語コミュニティのなかでは、「ことばをつかう」という点で権力関係が生じてはいけないし、生じる可能性があるものはなくしたほうがいい。だから、総攻撃をうけそうだけれど、敬語もなくしたほうがいいとおもっています。すくなくとも、いっぽうが敬語で、他方がそうじゃないことばづかいをするような関係を、言語そのものが(ただ加担するのではなくみずから)つくってしまうようなことではいけません。
漢字も、ぼくたちの記憶におおきな負担をかけるものです。また日本語のかきことばのかきねをとてもたかくしてしまうものです。それなのに、ぼくたちは小学校から高校ぐらいまで、毎日のように漢字をたたきこまれ、まさに「漢字ドリル」であたまにあなをあけられます。誤解のないようにいうと、ぼく自身は漢字がすきだし、漢字をおぼえるのもたのしかった。いまはこんなことをしているので、ずいぶんわすれてしまった(ほんとに)けれど、漢字が世界からなくなってしまえばいいとおもっているのではないのです。
ぼくがあってはいけないとおもうのは、日本語話者(非母語話者もふくむ)のすべてが、そこそこのしっかりした言語生活力(いまかんがえたことばですが、その言語をつかって(はなし、きき、よみ、かく)社会生活をおくる能力のようなもの)をもっているといえるためには、とてもこまかい漢字をやまのようにおぼえなければいけない。しかも、その知識がじゅうぶんでないと、「日本人のくせに」とか、普段そうでもないひとが急にこんないいかたをしはじめるし、それが自身におよぶばあいは「日本人なのにはずかしい」と、これもまた普段絶対そういうこといわなそうなひとでも、ということで、この漢字によるナショナル・アイデンティティのねは、とてもふかい。それがおかしいといいたいのです(麻生太郎の「ミゾユウ事件」についてのみ(それ以外は全部だめです、強調)、だからぼくは麻生を全力で弁護したい)。
別のことばでいうと、「ことばのバリアフリー」といってもいいし、こういう観点から漢字の氾濫(はんらん)を批判するひとは、ましこさん以外にも結構います。もうだいぶまえだけれど、朝日新聞で知的障害者をめぐるなんらかの社会問題(内容は不覚にもわすれてしまった)についての記事があって、当事者むけにとくにかかれた部分があり、そこの活字のポイントがほかよりおおきくて、漢字もとてもすくなくおさえてあるのをみました。そのとき、「え、なんで全部こういうふうにかかないで、この記事だけそういうふうにかくのだろう」とおもったのが、きっかけでした。
語弊があるとおもうけど、身体障害については、その「バリアフリー」にぼくたちは比較的よくなじんでいる。点字や点字ブロックがなにかしらないひとはいないし、エレベータもここ20年ぐらいでずいぶんふえました。もちろん、それでそっちの面でのバリアフリーが達成したとは全然おもわないけれど、とにかくそれについてひとがなにかいったり、反応したりする、という回路そのものはできているとおもいます。でも知的障害についてはどうかというと、ぼくの勉強不足かもしれませんが、そこまではいっていないのではないかとおもいます。もちろん、物理的な対応で、すぐにめにみえるものではないから、なかなかそうはいってもむずかしいとはおもうのだけれど、でもたとえば、文字を単純にすることでかわることがあるのだったら、新聞なんて全部ひらがなでもいいのに、とぼくはそのときおもいました。
数年まえから、東京や大阪の地下鉄の駅名が「M3」のように、路線名と終点からのかずで体系的にあらわされるようになりました。そうなったいきさつをぼくはしらないけれど、たぶん、外国人のモビリティへの配慮なのだとおもいます。しらない言語をはなす土地では、たしかにアルファベットでかいてあってよめるにはよめるというばあいでさえ、固有名詞の駅名をおぼえるのは大変だから、という経験からしてもありがたいこと。
なんでも単純にすればいいということではないのです。そうすることで、文化がおもしろくなくなるという部分もあるとおもうから。でも、言語は、そういう文化的価値をうんぬんする以前に、まずなによりもぼくたちがいきてゆく手段です。またぼくとあなたが、いろいろなものやことやきもちをかわし、共有するとても貴重な手段です。それが、ドリルでおぼえてやっとなんとかつかえる、というものであっては、やはりまずいのではないかとおもいます。
さきほどちらっと「表音主義」のことをかきましたが、それもおなじ発想です。係助詞のwaだけは「は」とかく、格助詞のoは「を」とかく、といった規則、その他、実際にはこう発音しているのに、規則でこうかくことにするというのは、書記言語をいたずらに複雑にしてしまうし、意味がない。「こんにちわ」とかくと、いまこれをかいている日本語入力ソフトでもかってに修正されてしまうけれど、これがなぜ「ただしく」は「こんにちは」なのかを説明できるひとはおおくないし、別にみんながしっていないといけないことでもない。なぜそんな面倒なことをするのか。助詞については、おおむかしに発音がちがっていたかららしい。かなづかいをあらためて「おもひで」とかをやめたときに、のこってしまったわすれもののような規則。
だから、問題は、いまかいたかなづかいのこともふくめて、けして、いわゆる表意文字をつかう言語にかぎったことではありません。ぼくはフランス語をよみかきできますが、つづり字上の規則はとても複雑で、同音異義語との区別のために、よまない文字がはいっていたり、おなじ発音でも別のつづり字のものもいろいろあります。もっと単純にすればいいのに、それでは「フランス語らしさ」がなくなるということになる。
このようにかんがえてゆくと、書記言語というのは、ようするに「きちんとかける教養人」と「ろくにかけない下々のひと」という権力関係をつくるためのものでもあるということに気づきます。フランスには、アカデミーとよばれる言語を管理するたいへん権威的な機関があり、そこがフランス語をまさにコントロールしています。日本語にはさいわいそういうのはないけれど、でも、おぼえないといけない(しらないことがはずかしいとされる)漢字がおおすぎる。そしてたくさんしっているひとがえらそうにして、そうじゃないひとがはずかしそうにしないといけない、そのえらそう/はずかしそうの関係が、たかだか文字のことでできあがってしまうのを、ぼくはそのままにしたくないので、それでこういう実験をやってみているのです。
たしかに、ぼくはわかちがきをしないので、文節のきれめがみえにくくてよみにくいということはあります。でも漢字はよめず、しらなければそこまでですが、文節のきれめは、すこしみなおしてもらえればすぐにわかります。ごくまれに、どちらできるかで意味がかわるというような経験をすることがありますが、気づいたときはほかの方法でふせぐし、気づかなかったときはあやまります。そのぐらいでも、いいんじゃないかな。全然わからないより、というのがぼくのかんがえです。きれめのわかりにくさは、ええっと、とぼくのことばそのものを注意ぶかくみてもらうことにつながりますが、わからない漢字には、たち往生するしかありません。
その意味では、ハングルはすばらしい発明だったとおもいます。あんなものが、もう500年以上もまえにできていたというのはおどろきです。ひとつの文字がひとつの音節に対応し、その文字そのものは子音と母音のくみあわせで表現されるということです(学習したことがないのです)。ぼくは、いままでかいてきた意味で、ハングルが導入された瞬間が、朝鮮語にとっては文字言語史における一種の「解放」だったのではないかと想像します。これはそれまで漢字だったから中国文化からの解放だという意味ではもちろんなく、書記言語が、まえにのべた「権力関係」から解放されたという意味です。
漢字をあまりつかわず、とりわけ訓よみのほうをやめた、というちょっと中途半端にみえる選択には、もうすこし理屈があります。あとすこし、かきます。
訓というのは、もともとが漢字ではなかったものに、意味から漢字をあてたものですから、すべて一種の「あて字」です。よくいわれるように、このくにの地名のほとんども、もちろんあて字です。あて字はおもしろいとおもいます。「兎に角」とか、よくやった!とおもいます。でもずっとつかわれたり、ましてそれが「よみ」として定着してしまうと、それはいっきに陳腐化し、意味がなんとなく漢字のほうにばかりひっぱられるような気もします。
そういうことが、とりわけ漢字をつかわなくなることでよくみえてきます。和語はもっとひろい意味をもっているはずだし、そのおとのひびきそのものがつたえるところで、すくなくとも口頭では、やりあってるはずなのに、ということです。あるいはまた、もともと日本語が区別していないことを、中国語が区別しているために、あえてつかいわけたりすることがあります。「聞く」と「聴く」とか、その他いろいろありますね。「書く」「描く」「画く」とかくひともいる、そして「搔く」もある。
前者のほうは、中学校ぐらいでならったときにびっくりしました。「聞く」はぼんやりきくことで、「聴く」は注意してきくこと。たぶんこの漢字をならうまでだれも、「きく」という行為に2種類あるのだとかんがえるひとはいないのではないかとおもいます(そして「きく」には2種類なんてない!)。だからいまもずっとぴんとこないまま。
また、「かく」についても、日本語ではもともとそんなものは区別していなくて、なんかほそいもので表面をこりこりすることが「かく」なんだけど、いつのまにかなんだかちがうことばのようにかんじてしまっている。漢字の「おかげ」なのか「せい」なのか。でももしかすると、日本語にとって大事なのは、むしろそれを全部おなじことばでいうほうじゃないかというおもいもあります。「ことば」という語そのものにも「言葉」というあて字(これは正真正銘)があって、詩的で、きれいだなとおもう反面、そのイメージだけに「ことば」をとじこめたくないというおもいもでてくる。「みる」は「見る」でいいかな、あ「観る」「看る」「視る」とかいろいろあるけれど、それ以前の問題としてたとえば「みすごす」「やってみる」などをかんがえるまでもなく「みる」は視覚関係だけの意味ではないし、「看る」があるぐらいではカバーできない。それで漢字のときとそうじゃないときをつかいわけるひともいるけれど、だったらつかわなくてもいいのに、とおもったりとか、そういうことです。
最後にもういちど念をおしたいのですが、ぼくは漢字が日本語文化からきえてしまえばいいとまでおもっているわけではありません。漢字はおもしろい。だけど、ある言語コミュニティの構成員全員に、それをつかいこなすことを要求するには、やはり複雑すぎる記号体系だとおもうのです。関心があるひとはどんどん勉強すればいいし、その可能性は保存してゆくべきだとおもうけれど、全員におしつけて、それで「日本人度」や教養をはかろうとしてはいけないとおもいます。
日本は識字率がたかいといわれます。ここまで複雑な文字体系で、その数字(wikiでは99.8%とかいてある)を維持するのは驚異的なことだとおもいます。これは、もちろん漢字ドリルのおかげで、それをもって日本の日本語教育を称賛し、それでやってきてみんなしあわせなんだからいいじゃないかといわれるかもしれない。99.8%がどうやって計測されたものなのかしらないけれど、「初等教育を終えた年齢」とかいてあるので、そもそも日本の教育をうけた日本人しか対象になっていません。それでも1000人にふたりのひとが字がよめない。そいつがわるい、ですか?でも、これにくわえて、日本で教育をうけることなく日本で生活しているひともいます。日本語は日本人のものだから、そこまでかんがえなくていいのですか。ぼくはちがうとおもう。
ことばは、できるだけまなびやすいものであったほうがよくて、すべての意味で、それにいちばん苦労するひとに、よけいな苦労がないようにできることがあるのなら、したほうがいいとおもいます。文法規則などを単純にするのはとても大変です。ぼくはたとえば、フランス語の名詞の性を廃止すべきであるという論文を日本語でもフランス語でもかき、以外にもフランスでのほうがよい反響をいただきましたが、正直実現はむずかしいとおもっています。でも文字はすぐにできるとおもいます。
そんなわけで、ぼくはもうしばらくはこの実験をつづけます。といいつつ、最近はこれが完全に自分の基本になり、訓に漢字をつかってしまうと、きもちわるいかんじさえするくらい。でも、ひそかに、みんなぼくのまねをしてくれないかなとおもっています。

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