洋画のタイトルから本来的な意味で「邦題」がきえ、カタカナがそのままならべられるようになってひさしい。一般人の英語力(ここでは単語力という程度の)があがったからだということもきくが、そうではなく、タイトルの意味がとわれなくなり、そのなかのいくつかのしっている単語だけで、漠然とした意味だけでタイトルが理解されるように、あるいはされないようになったということだとおもう。その結果、非英語圏の外国映画のタイトルも、やけくそのような「愛のナントカ」的なものか、英語タイトルのカタカナ表記だったりして、「400発」ではわからんから「大人は判ってくれない」にしよう、「息切れ」ではなんか黒澤映画みたいだから「勝手にしやがれ」にしようというような気概とセンスは、映画タイトルの世界からは一掃されてしまった感がある。
カタカナ語がすべてわるいというつもりはない。どうしても訳せないものというのもあるのもわかるし、あるいは「ちょっと事故がありまして」というと「ええ?」と深刻になるところを「ちょっとアクシデントが」とやるとなんか雰囲気がやわらぐ、といった効果は(その事故の内容にもよるが)いいところだとおもう。直接そのままいってしまうときつい、おもい、きずつけてしまう、というようなことをさけるために、ことばをやわらげることばの手法を「婉曲(えんきょく)語法」と、古典修辞学以来よんでいる。「病気だ」というかわりに「ぐあいがわるい」、「だめ」というかわりに「ちょっと」というのもまあそうである。そしてカタカナ語もおなじようにつかわれる。借用してつかっている語であるという間接性のおかげで、おなじ意味でもカタカナでいうと語気がやわらぐ、なんとなくソフトな内容のことをいっているような気がする。ほかに、カタカナでいうとかっこよくなる、という効果もあり、そっちのほうが商業的にふんだんに利用され、うえの映画のタイトルについてもそこが利用されているのだが、ここではそのはなしはしないことにする。
「事故」を「アクシデント」という婉曲語法は、それなりに意味があることがあるが、「婉曲」にいうことは、ともすれば「ごまかす」ことになる。また、「アクシデント」は完全に日本語化している(ここで「日本語化している」ということの意味は、その単語を理解できないことは、英語をしらないことではなく、日本語をしらないことで、日本語での日常的なコミュニケーションに支障がでるということ)が、最近は、これとおなじつもりのふりをして、だれもしらない単語をしのびこませて、そのばをごまかすことがままある。もちろん、英語をよくしっているひとにはわかるが、それは、当然ながらすべての日本語話者に(日本語話者として)要求されていることではないので、こうした語の使用は、業界用語や専門用語を、説明なしに使用するのとおなじで、「わけわからん」ということになってしまう。それが娯楽映画のタイトルならたいしたことはないといえばないが、もっと大事なことだとこまったことになる。3年まえの原発事故以来、ぼくたちは、カタカナ語か専門用語かによらず、とにかくそのことに困惑させられてきた。「uiuasfaompoi[0up
napo。だから安全です]のようなタイプのもの。
「積極的平和主義」はあやまった理解を誘導するというはなしをまえのブログでかいたけれど、政府はまだまだ、意味のわからないことばをこねくりまわしている(あるいはその反対に、わかりやすすぎることばでひとをいい気にさせるパターン(ポピュリズム・パターン)もあるが、これもまた別の意味のごまかしである。これについてもきっといつかかく)。たとえば「ベースロード電源」、なんかよさそうなかんじがすることば。北海道新聞を引用してみる。
原発「ベースロード電源」で調整 エネルギー基本計画
(02/19 23:08)
政府が策定中のエネルギー基本計画で、表現が強すぎると批判があった「基盤となる重要なベース電源」との原発の位置付けを、「重要なベースロード電源」と変更する方向で調整に入ったことが19日、分かった。
「ベースロード」とは英語で「基礎的な分担量」を意味する。「基盤となる」の部分に対し「強調し過ぎている」と与党内で異論が出ていることに配慮、この部分を削除して表現を弱めた。
経済産業省は「常時一定量を発電する電源であるベース電源の概念を分かりやすくした」と説明しているものの、難解さは解消されていない。
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「難解さは解消されていない」のではなく、よけいわかりにくくなっただけである。まったくわからなかったので、「ベースロード」をまずしらべてみようとおもったが、つづりがわからない。ぼくたちになじみのあるカタカナ語でむすびつけられるのは base road で、「基本路線となる電源」かなあとおもったが、正解はbase load、「基底負荷」という専門用語である。「原子力資料情報室」のサイトでは、「電力需要の「底」の部分で、常に使われている電力。」と定義されていた。グラフで比較的わかりやすくしめしてあるので、直接みていただきたい。
つまり、原発による電力供給をまず基本にかんがえて、あとのはそれにのっける感じでとらえましょうということなのだろうか。まちがっているかもしれないが、これはぼくのせいではなく、資源エネルギー庁のせいだ。あっているとして、もういちど北海道新聞の記事をみてみると、すぐにわかることだが、「ベースロード」をいいたいなら、「批判があった」ほう、つまり「基盤となる重要なベース電源」のほうが、よっぽどわかりやすい。そしてそれがわかりやすいのは当然である。与党内での批判は、「表現が強すぎる」のだったから、期待されているのはたしかに婉曲語法なのである。そこで、カタカナ語のでばん、ということで採用されたのが、このあたらしいほうの表現、「重要なベースロード電源」である。
変更まえと変更後の2つの表現がさす内容はまったくおなじで、変更されたのは「表現」だけであることに、ぼくたちはもっと注意しなければならない。しかも、それがそうであることは、上記の記事をみるかぎり、かくされてさえいない。内容をかえろと要請されたのではなく、表現をかえろといわれたのだ。そしてそこで認知度のひくいカタカナ語にうったえるというのは、すでにのべたとおり日本語の現状では常套で、その意味ではこの調整は「適切」であったということになる。
ただし、国民にむけた計画中の文書としてこれが適切な調整だったかというと、それはもちろんとんでもないはなしである。そのまえにもうすこしだけ「婉曲語法」について。日本語ベースの婉曲語法では、実際に、つよい意味の表現をよわいものにおきかえる。「重病」といえないから「ぐあいがわるい」というのであり、「無理」といいきるのはわるいから「ちょっとむずかしい」とはぐらかす。ここでは、その真意をどう理解するかとは別に、くちにされたことばそのものの意味はあきらかによわまっている。ところが日本語をカタカナ語におきかえる婉曲語法では、おなじような意味のよわまりはおこらない。たしかに、「アクシデント」のように、「ちょっとした事故」というよわい意味で定着してしまったものでは、それなりの意味のよわまりを(いまや)観察することができるが、このように慣用化がすすんでいないケースでは、カタカナ語におきかえることは、そういえばあいてに意味がわからなくなることを利用して、実際にはおなじことをいっているのに、カタカナがもつ独特のかるさにかくれて、なんだか内容までかるくなったようにおもわせるだけのことである。外国語はかるい。これはもっと卑近な例でもいえる。「うんこ」とおおごえでさけぶにはかなりのエネルギーがいるが、shitといわされるのは、罰ゲームだとしたら前者にくらべてかなり楽である。じづらになじんでいない語は、それにむすびついた意味のかるさを生じさせる。「基礎となる重要なベース電源」といわれると、「えーやっぱりそういうことなの」となるが、「重要なベースロード電源」だと、なんか意味がかるくなったかんじがする、じゃあまあいいかともうちょっとでおもいそうになる。そういうごまかしを、政府は、いけしゃあしゃあと展開しており、それをそのまま新聞にかかれている。そしてぼくたちのほうも、ちょっと余分に注意しないと、それに気づかずとおりすぎそうになる。
政府は、ぼくたちが税金でやとって、くにのいろいろをやってもらっている最大のサービス機関であり、ぼくたち全員は政府の顧客である。よく携帯の契約内容などで、重要事項の記述がちいさすぎて消費者が理解していなくてトラブルになって業者が処分されたりするようなことがあるが、あれのもっとひどいことを政府はやっている。「ベースロード」といっておけば、なんかかるいかんじがしていいでしょ、なるほど、というやりとりでエネルギー計画がつくられていっている。顧客である国民に、誠実なことばをつかえない政府。政治家かが、そんな正直なことするわけないじゃない、というおとなのアドバイスに、ぼくはそれでもいやいやといいたい。だからって、それをみすごしてたら、客のぼくたちが損ばっかりする、というかいのちさえあやういんですよ。おとなになってるばあいですか。そんなこといってたら、そのうち、「まあれも、『福島原発アクシデント』ってことで」といいかえられても気づかなかったりするかもよ。
つけたします。そういえば、「原子力」というのは、「核」の、ちょっとした婉曲語法ですね。どちらももとの英語はおなじで、発電のほうには、こわくなさそうなことば、爆弾には、ときによってつよそうなことばと両方をつかいわけます。当初から、ぼくたちはごまかされつづけてきた。
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