2014年2月25日火曜日

こどもに漢字をどうするか


きのうのブログのつづきです。ながくなりすぎたので稿をこのようにあらためるのですが、では、おまえは自分のこどもが漢字などおぼえなくてもよいとおもうのか、ときかれたらどうするのかということです。
ぼくにはこどもがいないので、この点についてリアルにこたえることはできないのですが、どちらにしても難問。
でも、ぼくは、自分にこどもがいたら、きっと漢字をおしえるだろうし、一生けんめいおぼえるといいよというとおもいます。
その理由のひとつが、さきのブログで何度もかいたように、漢字はおもしろいから、漢字についての知識をゆたかにもつことで、いろんなことにつながるとおもうから。
もうひとつは、言語にかんするきまりごとは、共同体のきまりごとなので、ぼくひとりがどうこういったところでかわらず、ぼくのおもいをこどもにたくしても、こどもはそれではしあわせになれないということ。ソシュールは言語の「社会性」というのを強調したひとでもあるけれど、それです。いま漢字はいらないというのは、「反社会的」なことにしかならない。反社会的なことはそれだけでは別にわるいことではないけれど、こどもはそれで得をしない。だからおしえるしかない。
そのときのこどもにたいする説明は、ぶっちゃけ、いろいろ本心じゃないこともいうとおもいます。
そのうえで、こどもが18歳ぐらいになったら、ぼくはさきのブログにかいたようなはなしをして「どうおもう?」とこどもにきくでしょう。そして、そのこたえしだいでは、「こんなに漢字をたくさんおぼえないと日本語社会でいきていけないというのは、なんだかきゅうくつなはなしだよね」とかえしたりするかもしれない。
しごとで、そのぐらいの年齢のひとにフランス語を(外国語として)おしえています。そしてぼくは、この言語のなかにときどきある、ただ文法をややこしくするだけのような規則を「こんな規則なくてもいいし、多分なくすべきなんだけどね」といいながらおしえます。「ごめんね、でも、ぼくひとりがそれいってもフランス語はかわらんのよ」とかいいながら。で、それを平気でいうのは、かれらがそういうことをわかってくれる「おとな」だからです。だから、「言語ってこういうもんじゃないとおもうんだよね」というはなしもしたりすることもあります。こどもには、それではきっとうまくいかないから、すこしのあいだ、そういうはなしはしないでおく。
気づいたでしょうか。言語は制度なので、それ自体が権力的です。言語をまなび、習得することとは、その権力に屈することです。それによってのみ、ぼくたちは、その言語共同体のなかまにはいることができます。「恣意的」というのもよくいわれることです。そう、なぜそうなのかをとうことは、はじめから禁じられています。
だから、習得過程では、ちょっとどうしようもない部分がある。よしあしに関係なく、それをしないとはじかれる。
でも、だからこそ、ひとたびものにしたら、こんどはそれを解体(必要ならば)する主体に、みんなひとりひとりがなってゆけばよい。このおびただしい漢字を「日本語話者」というだけで強制するのは拷問だとおもうなら、そこから日本語話者を解放してやればよい、ということです。そしてその解放をかちとったあとでないと、ぼくたちは、漢字をしらないこどもやひとをしあわせにはできないということです。
でも、いつかようやくそんなときがきたとしても、ぼくはそれでも漢字をおしえるかもしれない。おもしろいから、勉強してごらん。
ただ、ピアノのレッスンのように、あきたり、いやがったりしたらやめさせればいいし、すきそうなら漢字の達人にそだてればいい。これは共同体の義務ではないので、自由に采配されること。
最後にひとこと。
知識は、それをもっていることを前提にされているひと(教師や、特定分野の専門家など)以外にとっては、ただ「すごくよくしってるね」という以上の、それでひとそのものの価値がはかられるようなものであってはいけない。知識をもつものが、それによって特権階級を構成しては絶対にいけない。すぐれた能力は、どんな能力でもすごい、とおもっていいけど、もっていないことがはずかしい、とおもうような能力はない。ひとは、なにもなくても十分にうつくしいから。
すこしはなしがそれているとおもいますか。ぼくのなかではひとつのはなしなのだけれど。
ながくならないように、ここでおわりますが、ことばがたりないかもしれません。また、かけることがあればかきます。よんでくれて、ありがとうございます。

2014年2月24日月曜日

ひらがながおおいこと:ことばがみんなのもので、自由なものであるために








ひらがながおおくて、かえって文章がよみにくいとよくいわれます。もちろんわかっているし、そうおもうひとにはわるいなともおもうのですが、ここ数年、ちょっとこういう実験をしてみています。よんでくれるひとには、それにつきあってもらわないといけないのですが、つきあってもらうこともふくめて実験。
基本方針は、訓よみの漢字をつかわないということです。音よみについてはいまのやりかたでは制限していません。まれにですが、よみにくい、意味がとりにくそうというときにはふりがなをつけたり、新聞のようにかっこがきしたりします。
理由をまず単純にいうと、ことばは、何千という規模のかずの記号をおぼえなければなりたたないようなものであってはならないとおもうからです。言語社会学者のましこ・ひでのり氏は、ぼくなどよりもっと徹底していて、全部ひらがなで学術論文もかいたりするようなつわものです。しかも「表音主義」といって、ことばを、発音するそのままでかくので、「わたしわ かんじぶんかに ちょーぜん とした たいど お しめしたい」(引用ではありません)と、一見とてもふざけたようなじづらで、がんがんかいているひとで、ひそかにおおいなる敬意をはらっています。さすがに、オールかなだとほんとうによみにくいので、ましこさんはアルファベットの言語がするような「わかちがき」を採用しています(いまのぼくの作例はわかちかたがまちがっているかもしれません)。
ぼくはそこまではできないし、ましこさんもそれだけで書記言語生活をいきているわけではありません。で、じゃあどうしようということで、自分のなかの法則として、訓は漢字にしないことにきめてやってみています(ときどきどちらかわからずまちがえたり、普通にうっかり漢字にしてしまったりもするけど)。
ことば、特に母語をはなす能力は、口頭言語については、ぼくたちがとくに教育や訓練をうけることなく習得できるすばらしい能力で、これは原則としてすべての人間にあたえられています。ことばがあるおかげで、ぼくたちはひとつのえものをあらそってころしあわなくてよくなり、おとなからこどもまで、きもちやかんがえやいろいろな情報をやりとりし、共有できるようになりました。とりあえずしりあいじゃないというだけでガーガーほえあっているイヌとかをみていると、ありがたいことです。
もちろん、ことばのおかげで人間の知性はどんどん発達して、よけいなものもたくさんつくってしまいました。だけどきっとそれをのりこえるためのものをつくるのもきっと人間のちからだと信じています。がんばってほしいものです。
ことばは、だから当然のことながらみんなのものです。おなじ言語コミュニティのなかでは、「ことばをつかう」という点で権力関係が生じてはいけないし、生じる可能性があるものはなくしたほうがいい。だから、総攻撃をうけそうだけれど、敬語もなくしたほうがいいとおもっています。すくなくとも、いっぽうが敬語で、他方がそうじゃないことばづかいをするような関係を、言語そのものが(ただ加担するのではなくみずから)つくってしまうようなことではいけません。
漢字も、ぼくたちの記憶におおきな負担をかけるものです。また日本語のかきことばのかきねをとてもたかくしてしまうものです。それなのに、ぼくたちは小学校から高校ぐらいまで、毎日のように漢字をたたきこまれ、まさに「漢字ドリル」であたまにあなをあけられます。誤解のないようにいうと、ぼく自身は漢字がすきだし、漢字をおぼえるのもたのしかった。いまはこんなことをしているので、ずいぶんわすれてしまった(ほんとに)けれど、漢字が世界からなくなってしまえばいいとおもっているのではないのです。
ぼくがあってはいけないとおもうのは、日本語話者(非母語話者もふくむ)のすべてが、そこそこのしっかりした言語生活力(いまかんがえたことばですが、その言語をつかって(はなし、きき、よみ、かく)社会生活をおくる能力のようなもの)をもっているといえるためには、とてもこまかい漢字をやまのようにおぼえなければいけない。しかも、その知識がじゅうぶんでないと、「日本人のくせに」とか、普段そうでもないひとが急にこんないいかたをしはじめるし、それが自身におよぶばあいは「日本人なのにはずかしい」と、これもまた普段絶対そういうこといわなそうなひとでも、ということで、この漢字によるナショナル・アイデンティティのねは、とてもふかい。それがおかしいといいたいのです(麻生太郎の「ミゾユウ事件」についてのみ(それ以外は全部だめです、強調)、だからぼくは麻生を全力で弁護したい)。
別のことばでいうと、「ことばのバリアフリー」といってもいいし、こういう観点から漢字の氾濫(はんらん)を批判するひとは、ましこさん以外にも結構います。もうだいぶまえだけれど、朝日新聞で知的障害者をめぐるなんらかの社会問題(内容は不覚にもわすれてしまった)についての記事があって、当事者むけにとくにかかれた部分があり、そこの活字のポイントがほかよりおおきくて、漢字もとてもすくなくおさえてあるのをみました。そのとき、「え、なんで全部こういうふうにかかないで、この記事だけそういうふうにかくのだろう」とおもったのが、きっかけでした。
語弊があるとおもうけど、身体障害については、その「バリアフリー」にぼくたちは比較的よくなじんでいる。点字や点字ブロックがなにかしらないひとはいないし、エレベータもここ20年ぐらいでずいぶんふえました。もちろん、それでそっちの面でのバリアフリーが達成したとは全然おもわないけれど、とにかくそれについてひとがなにかいったり、反応したりする、という回路そのものはできているとおもいます。でも知的障害についてはどうかというと、ぼくの勉強不足かもしれませんが、そこまではいっていないのではないかとおもいます。もちろん、物理的な対応で、すぐにめにみえるものではないから、なかなかそうはいってもむずかしいとはおもうのだけれど、でもたとえば、文字を単純にすることでかわることがあるのだったら、新聞なんて全部ひらがなでもいいのに、とぼくはそのときおもいました。
数年まえから、東京や大阪の地下鉄の駅名が「M3」のように、路線名と終点からのかずで体系的にあらわされるようになりました。そうなったいきさつをぼくはしらないけれど、たぶん、外国人のモビリティへの配慮なのだとおもいます。しらない言語をはなす土地では、たしかにアルファベットでかいてあってよめるにはよめるというばあいでさえ、固有名詞の駅名をおぼえるのは大変だから、という経験からしてもありがたいこと。
なんでも単純にすればいいということではないのです。そうすることで、文化がおもしろくなくなるという部分もあるとおもうから。でも、言語は、そういう文化的価値をうんぬんする以前に、まずなによりもぼくたちがいきてゆく手段です。またぼくとあなたが、いろいろなものやことやきもちをかわし、共有するとても貴重な手段です。それが、ドリルでおぼえてやっとなんとかつかえる、というものであっては、やはりまずいのではないかとおもいます。
さきほどちらっと「表音主義」のことをかきましたが、それもおなじ発想です。係助詞のwaだけは「は」とかく、格助詞のoは「を」とかく、といった規則、その他、実際にはこう発音しているのに、規則でこうかくことにするというのは、書記言語をいたずらに複雑にしてしまうし、意味がない。「こんにちわ」とかくと、いまこれをかいている日本語入力ソフトでもかってに修正されてしまうけれど、これがなぜ「ただしく」は「こんにちは」なのかを説明できるひとはおおくないし、別にみんながしっていないといけないことでもない。なぜそんな面倒なことをするのか。助詞については、おおむかしに発音がちがっていたかららしい。かなづかいをあらためて「おもひで」とかをやめたときに、のこってしまったわすれもののような規則。
だから、問題は、いまかいたかなづかいのこともふくめて、けして、いわゆる表意文字をつかう言語にかぎったことではありません。ぼくはフランス語をよみかきできますが、つづり字上の規則はとても複雑で、同音異義語との区別のために、よまない文字がはいっていたり、おなじ発音でも別のつづり字のものもいろいろあります。もっと単純にすればいいのに、それでは「フランス語らしさ」がなくなるということになる。
このようにかんがえてゆくと、書記言語というのは、ようするに「きちんとかける教養人」と「ろくにかけない下々のひと」という権力関係をつくるためのものでもあるということに気づきます。フランスには、アカデミーとよばれる言語を管理するたいへん権威的な機関があり、そこがフランス語をまさにコントロールしています。日本語にはさいわいそういうのはないけれど、でも、おぼえないといけない(しらないことがはずかしいとされる)漢字がおおすぎる。そしてたくさんしっているひとがえらそうにして、そうじゃないひとがはずかしそうにしないといけない、そのえらそう/はずかしそうの関係が、たかだか文字のことでできあがってしまうのを、ぼくはそのままにしたくないので、それでこういう実験をやってみているのです。
たしかに、ぼくはわかちがきをしないので、文節のきれめがみえにくくてよみにくいということはあります。でも漢字はよめず、しらなければそこまでですが、文節のきれめは、すこしみなおしてもらえればすぐにわかります。ごくまれに、どちらできるかで意味がかわるというような経験をすることがありますが、気づいたときはほかの方法でふせぐし、気づかなかったときはあやまります。そのぐらいでも、いいんじゃないかな。全然わからないより、というのがぼくのかんがえです。きれめのわかりにくさは、ええっと、とぼくのことばそのものを注意ぶかくみてもらうことにつながりますが、わからない漢字には、たち往生するしかありません。
その意味では、ハングルはすばらしい発明だったとおもいます。あんなものが、もう500年以上もまえにできていたというのはおどろきです。ひとつの文字がひとつの音節に対応し、その文字そのものは子音と母音のくみあわせで表現されるということです(学習したことがないのです)。ぼくは、いままでかいてきた意味で、ハングルが導入された瞬間が、朝鮮語にとっては文字言語史における一種の「解放」だったのではないかと想像します。これはそれまで漢字だったから中国文化からの解放だという意味ではもちろんなく、書記言語が、まえにのべた「権力関係」から解放されたという意味です。
漢字をあまりつかわず、とりわけ訓よみのほうをやめた、というちょっと中途半端にみえる選択には、もうすこし理屈があります。あとすこし、かきます。
訓というのは、もともとが漢字ではなかったものに、意味から漢字をあてたものですから、すべて一種の「あて字」です。よくいわれるように、このくにの地名のほとんども、もちろんあて字です。あて字はおもしろいとおもいます。「兎に角」とか、よくやった!とおもいます。でもずっとつかわれたり、ましてそれが「よみ」として定着してしまうと、それはいっきに陳腐化し、意味がなんとなく漢字のほうにばかりひっぱられるような気もします。
そういうことが、とりわけ漢字をつかわなくなることでよくみえてきます。和語はもっとひろい意味をもっているはずだし、そのおとのひびきそのものがつたえるところで、すくなくとも口頭では、やりあってるはずなのに、ということです。あるいはまた、もともと日本語が区別していないことを、中国語が区別しているために、あえてつかいわけたりすることがあります。「聞く」と「聴く」とか、その他いろいろありますね。「書く」「描く」「画く」とかくひともいる、そして「搔く」もある。
前者のほうは、中学校ぐらいでならったときにびっくりしました。「聞く」はぼんやりきくことで、「聴く」は注意してきくこと。たぶんこの漢字をならうまでだれも、「きく」という行為に2種類あるのだとかんがえるひとはいないのではないかとおもいます(そして「きく」には2種類なんてない!)。だからいまもずっとぴんとこないまま。
また、「かく」についても、日本語ではもともとそんなものは区別していなくて、なんかほそいもので表面をこりこりすることが「かく」なんだけど、いつのまにかなんだかちがうことばのようにかんじてしまっている。漢字の「おかげ」なのか「せい」なのか。でももしかすると、日本語にとって大事なのは、むしろそれを全部おなじことばでいうほうじゃないかというおもいもあります。「ことば」という語そのものにも「言葉」というあて字(これは正真正銘)があって、詩的で、きれいだなとおもう反面、そのイメージだけに「ことば」をとじこめたくないというおもいもでてくる。「みる」は「見る」でいいかな、あ「観る」「看る」「視る」とかいろいろあるけれど、それ以前の問題としてたとえば「みすごす」「やってみる」などをかんがえるまでもなく「みる」は視覚関係だけの意味ではないし、「看る」があるぐらいではカバーできない。それで漢字のときとそうじゃないときをつかいわけるひともいるけれど、だったらつかわなくてもいいのに、とおもったりとか、そういうことです。
最後にもういちど念をおしたいのですが、ぼくは漢字が日本語文化からきえてしまえばいいとまでおもっているわけではありません。漢字はおもしろい。だけど、ある言語コミュニティの構成員全員に、それをつかいこなすことを要求するには、やはり複雑すぎる記号体系だとおもうのです。関心があるひとはどんどん勉強すればいいし、その可能性は保存してゆくべきだとおもうけれど、全員におしつけて、それで「日本人度」や教養をはかろうとしてはいけないとおもいます。
日本は識字率がたかいといわれます。ここまで複雑な文字体系で、その数字(wikiでは99.8%とかいてある)を維持するのは驚異的なことだとおもいます。これは、もちろん漢字ドリルのおかげで、それをもって日本の日本語教育を称賛し、それでやってきてみんなしあわせなんだからいいじゃないかといわれるかもしれない。99.8%がどうやって計測されたものなのかしらないけれど、「初等教育を終えた年齢」とかいてあるので、そもそも日本の教育をうけた日本人しか対象になっていません。それでも1000人にふたりのひとが字がよめない。そいつがわるい、ですか?でも、これにくわえて、日本で教育をうけることなく日本で生活しているひともいます。日本語は日本人のものだから、そこまでかんがえなくていいのですか。ぼくはちがうとおもう。
ことばは、できるだけまなびやすいものであったほうがよくて、すべての意味で、それにいちばん苦労するひとに、よけいな苦労がないようにできることがあるのなら、したほうがいいとおもいます。文法規則などを単純にするのはとても大変です。ぼくはたとえば、フランス語の名詞の性を廃止すべきであるという論文を日本語でもフランス語でもかき、以外にもフランスでのほうがよい反響をいただきましたが、正直実現はむずかしいとおもっています。でも文字はすぐにできるとおもいます。
そんなわけで、ぼくはもうしばらくはこの実験をつづけます。といいつつ、最近はこれが完全に自分の基本になり、訓に漢字をつかってしまうと、きもちわるいかんじさえするくらい。でも、ひそかに、みんなぼくのまねをしてくれないかなとおもっています。

2014年2月22日土曜日

「原発は『ベースロード電源』」:ごまかしの婉曲語法


洋画のタイトルから本来的な意味で「邦題」がきえ、カタカナがそのままならべられるようになってひさしい。一般人の英語力(ここでは単語力という程度の)があがったからだということもきくが、そうではなく、タイトルの意味がとわれなくなり、そのなかのいくつかのしっている単語だけで、漠然とした意味だけでタイトルが理解されるように、あるいはされないようになったということだとおもう。その結果、非英語圏の外国映画のタイトルも、やけくそのような「愛のナントカ」的なものか、英語タイトルのカタカナ表記だったりして、「400発」ではわからんから「大人は判ってくれない」にしよう、「息切れ」ではなんか黒澤映画みたいだから「勝手にしやがれ」にしようというような気概とセンスは、映画タイトルの世界からは一掃されてしまった感がある。
カタカナ語がすべてわるいというつもりはない。どうしても訳せないものというのもあるのもわかるし、あるいは「ちょっと事故がありまして」というと「ええ?」と深刻になるところを「ちょっとアクシデントが」とやるとなんか雰囲気がやわらぐ、といった効果は(その事故の内容にもよるが)いいところだとおもう。直接そのままいってしまうときつい、おもい、きずつけてしまう、というようなことをさけるために、ことばをやわらげることばの手法を「婉曲(えんきょく)語法」と、古典修辞学以来よんでいる。「病気だ」というかわりに「ぐあいがわるい」、「だめ」というかわりに「ちょっと」というのもまあそうである。そしてカタカナ語もおなじようにつかわれる。借用してつかっている語であるという間接性のおかげで、おなじ意味でもカタカナでいうと語気がやわらぐ、なんとなくソフトな内容のことをいっているような気がする。ほかに、カタカナでいうとかっこよくなる、という効果もあり、そっちのほうが商業的にふんだんに利用され、うえの映画のタイトルについてもそこが利用されているのだが、ここではそのはなしはしないことにする。
「事故」を「アクシデント」という婉曲語法は、それなりに意味があることがあるが、「婉曲」にいうことは、ともすれば「ごまかす」ことになる。また、「アクシデント」は完全に日本語化している(ここで「日本語化している」ということの意味は、その単語を理解できないことは、英語をしらないことではなく、日本語をしらないことで、日本語での日常的なコミュニケーションに支障がでるということ)が、最近は、これとおなじつもりのふりをして、だれもしらない単語をしのびこませて、そのばをごまかすことがままある。もちろん、英語をよくしっているひとにはわかるが、それは、当然ながらすべての日本語話者に(日本語話者として)要求されていることではないので、こうした語の使用は、業界用語や専門用語を、説明なしに使用するのとおなじで、「わけわからん」ということになってしまう。それが娯楽映画のタイトルならたいしたことはないといえばないが、もっと大事なことだとこまったことになる。3年まえの原発事故以来、ぼくたちは、カタカナ語か専門用語かによらず、とにかくそのことに困惑させられてきた。「uiuasfaompoi[0up napo。だから安全です]のようなタイプのもの。
「積極的平和主義」はあやまった理解を誘導するというはなしをまえのブログでかいたけれど、政府はまだまだ、意味のわからないことばをこねくりまわしている(あるいはその反対に、わかりやすすぎることばでひとをいい気にさせるパターン(ポピュリズム・パターン)もあるが、これもまた別の意味のごまかしである。これについてもきっといつかかく)。たとえば「ベースロード電源」、なんかよさそうなかんじがすることば。北海道新聞を引用してみる。
原発「ベースロード電源」で調整 エネルギー基本計画
02/19 23:08

 政府が策定中のエネルギー基本計画で、表現が強すぎると批判があった「基盤となる重要なベース電源」との原発の位置付けを、「重要なベースロード電源」と変更する方向で調整に入ったことが19日、分かった。

 「ベースロード」とは英語で「基礎的な分担量」を意味する。「基盤となる」の部分に対し「強調し過ぎている」と与党内で異論が出ていることに配慮、この部分を削除して表現を弱めた。

 経済産業省は「常時一定量を発電する電源であるベース電源の概念を分かりやすくした」と説明しているものの、難解さは解消されていない。
「難解さは解消されていない」のではなく、よけいわかりにくくなっただけである。まったくわからなかったので、「ベースロード」をまずしらべてみようとおもったが、つづりがわからない。ぼくたちになじみのあるカタカナ語でむすびつけられるのは base road で、「基本路線となる電源」かなあとおもったが、正解はbase load、「基底負荷」という専門用語である。「原子力資料情報室」のサイトでは、「電力需要の「底」の部分で、常に使われている電力。」と定義されていた。グラフで比較的わかりやすくしめしてあるので、直接みていただきたい。
つまり、原発による電力供給をまず基本にかんがえて、あとのはそれにのっける感じでとらえましょうということなのだろうか。まちがっているかもしれないが、これはぼくのせいではなく、資源エネルギー庁のせいだ。あっているとして、もういちど北海道新聞の記事をみてみると、すぐにわかることだが、「ベースロード」をいいたいなら、「批判があった」ほう、つまり「基盤となる重要なベース電源」のほうが、よっぽどわかりやすい。そしてそれがわかりやすいのは当然である。与党内での批判は、「表現が強すぎる」のだったから、期待されているのはたしかに婉曲語法なのである。そこで、カタカナ語のでばん、ということで採用されたのが、このあたらしいほうの表現、「重要なベースロード電源」である。
変更まえと変更後の2つの表現がさす内容はまったくおなじで、変更されたのは「表現」だけであることに、ぼくたちはもっと注意しなければならない。しかも、それがそうであることは、上記の記事をみるかぎり、かくされてさえいない。内容をかえろと要請されたのではなく、表現をかえろといわれたのだ。そしてそこで認知度のひくいカタカナ語にうったえるというのは、すでにのべたとおり日本語の現状では常套で、その意味ではこの調整は「適切」であったということになる。
ただし、国民にむけた計画中の文書としてこれが適切な調整だったかというと、それはもちろんとんでもないはなしである。そのまえにもうすこしだけ「婉曲語法」について。日本語ベースの婉曲語法では、実際に、つよい意味の表現をよわいものにおきかえる。「重病」といえないから「ぐあいがわるい」というのであり、「無理」といいきるのはわるいから「ちょっとむずかしい」とはぐらかす。ここでは、その真意をどう理解するかとは別に、くちにされたことばそのものの意味はあきらかによわまっている。ところが日本語をカタカナ語におきかえる婉曲語法では、おなじような意味のよわまりはおこらない。たしかに、「アクシデント」のように、「ちょっとした事故」というよわい意味で定着してしまったものでは、それなりの意味のよわまりを(いまや)観察することができるが、このように慣用化がすすんでいないケースでは、カタカナ語におきかえることは、そういえばあいてに意味がわからなくなることを利用して、実際にはおなじことをいっているのに、カタカナがもつ独特のかるさにかくれて、なんだか内容までかるくなったようにおもわせるだけのことである。外国語はかるい。これはもっと卑近な例でもいえる。「うんこ」とおおごえでさけぶにはかなりのエネルギーがいるが、shitといわされるのは、罰ゲームだとしたら前者にくらべてかなり楽である。じづらになじんでいない語は、それにむすびついた意味のかるさを生じさせる。「基礎となる重要なベース電源」といわれると、「えーやっぱりそういうことなの」となるが、「重要なベースロード電源」だと、なんか意味がかるくなったかんじがする、じゃあまあいいかともうちょっとでおもいそうになる。そういうごまかしを、政府は、いけしゃあしゃあと展開しており、それをそのまま新聞にかかれている。そしてぼくたちのほうも、ちょっと余分に注意しないと、それに気づかずとおりすぎそうになる。
政府は、ぼくたちが税金でやとって、くにのいろいろをやってもらっている最大のサービス機関であり、ぼくたち全員は政府の顧客である。よく携帯の契約内容などで、重要事項の記述がちいさすぎて消費者が理解していなくてトラブルになって業者が処分されたりするようなことがあるが、あれのもっとひどいことを政府はやっている。「ベースロード」といっておけば、なんかかるいかんじがしていいでしょ、なるほど、というやりとりでエネルギー計画がつくられていっている。顧客である国民に、誠実なことばをつかえない政府。政治家かが、そんな正直なことするわけないじゃない、というおとなのアドバイスに、ぼくはそれでもいやいやといいたい。だからって、それをみすごしてたら、客のぼくたちが損ばっかりする、というかいのちさえあやういんですよ。おとなになってるばあいですか。そんなこといってたら、そのうち、「まあれも、『福島原発アクシデント』ってことで」といいかえられても気づかなかったりするかもよ。

2014年2月3日月曜日

こどもだましの「積極的平和主義」







 
当然のことだが、政治家はひとをだましてはいけない。ところが、周知のとおり、むしろひとをだますことが政治家のしごとか、というようなことが横行している。いまそのひとつひとつをあげて論じようというのではない。安倍晋三がもちいる「積極的平和主義」の語が、いかに意図的にひとをだますために使用されているのかということをのべ、このことばを、ただちに「積極的暴力主義」にあらためていただきたいということをのべる。すくなくとも、そのようにいえば、安倍の論は一貫したものになる。ここでは、安倍のこうした「安全保障戦略」の是非についてはおおくをのべない。その前段階として、かれの不誠実なことばづかいを批判することにおもきをおく。
まず「平和」について。「平和」についてのウィキペディアの項目をみて、その「リアリズム」におどろくと同時に、絶望的ななきもちになった。その冒頭には以下のようにある。
「平和(へいわ)とは、戦争や内戦で、社会が乱れていないこと。現実的には国家の抑止力が内外の脅威を抑止している状態である。史学的には戦間期(interwar)とも表現され、戦争終結から次の戦争開始までの時間を意味する。」(ウィキペディア:「平和」)
これにつづけて「概要」では、以下のようにいいきられている。
「人類の歴史は、戦争の歴史である。人類は戦争を繰り返し多くの生命、財産を消失しているが、戦争により、人類は発達した文明を築いている。現代社会は、核兵器の存在によって、核兵器保有国同士の大規模な戦争は抑止され、一応の平和が保たれている。現在でも国家間の軍事力の均衡が戦争を抑止しており、戦火を交えなくとも外交や経済を主軸とした、国家間の生存競争は絶えず行われている。異なる国家が隣接して国境が策定されている場合は、おのおのの国家が軍隊を組織して常時軍事的緊張を保っており、軍事力の均衡がまったくない平和は存在しない。」
ウィキは、しばしば他言語のサイトからの翻訳だったりすることもおおいので、ぼくがよむことができるフランス語と英語のページをみてみたが、このような記述はなかった。
“Peace is an occurrence of harmony characterized by the lack of violence, conflict behaviors and the freedom from fear of violence. Commonly understood as the absence of hostility and retribution, peace also suggests sincere attempts at reconciliation, the existence of healthy or newly healed interpersonal or international relationships, prosperity in matters of social or economic welfare, the establishment of equality, and a working political order that serves the true interests of all.” (Wikipedia : “peace”)
(平和とは暴力やあらそいの行為がないこと、そして暴力にたいする恐怖から自由であることによって特徴づけられる調和の生起である。敵対や報復の不在として一般的には理解されるので、平和とはまた、和解への真摯なこころみ、健全であらたにおりあいをつけられたひととひと、くにとくにとの関係の存在、社会的あるいは経済的な福利の繁栄、平等の確立、そして、万人にとっての真の利益にやくだつしっかりとした政治秩序の存在を暗示するものである。)
« La paix (du latin pax) désigne habituellement un état de calme ou de tranquillité comme une absence de perturbation, d'agitation ou de conflit. Elle est parfois considérée comme un idéal social et politique.
Dans la mythologie grecque, Irène ou Eiréné est une divinité allégorique personnifiant la Paix. » (Wikipédia : « paix »)
(平和(ラテン語のpax)とは、通常、攪乱や動揺、紛争のないしずかで安静な状態を意味する。またときに、社会や政治の理想とみなされることもある。/ギリシャ神話では、エイレーネーが平和を人格化する寓話的神性である。)
このように、これら英仏語のページでは、「平和」の中心的な語義が冒頭にのべられている。まずは、だれかが、このはずべき日本語の「平和」の項目をかきかえることからしなければならない(ぼくにはその能力がないのだけれど)。
こんなウィキの記述があるようなくにだからなのだろうか、安倍のとく「積極的平和主義」は「平和」の概念を歪曲し、さらにそれを「積極的」で粉飾することで、あたかもそれが「平和主義」を「積極的」に推進するものであるようにみせかけて、実際には逆のかんがえをおしすすめようとするものだ。かりに「平和」が、その語義がもつような理想的な状態をさすものとしてつかえるほどあまくないのだということをみとめたとしても「平和主義」はそうであってはいけない。これはイデオロギーの問題ではなく「主義」ということばのもつつよさの問題である。「〜主義 / -ism」とは、「〜」を原則とするということで、そのとき「〜」は、めざすべき理想でなければならない。したがって、すくなくとも「平和主義」における「平和」とは、「戦間期」でもなければ、「軍事的緊張を保」ったうえのそれでもなく、「社会や政治の理想」としての「社会的あるいは経済的な福利の繁栄、平等の確立、そして、万人にとっての真の利益にやくだつしっかりとした政治秩序の存在」といったものであるはずだ。これが大前提にならなければ、いかなる現実的な「平和」を希求することもできない。
つづいて「積極的平和」について。この用語はもちろん安倍のうちだしたものではなく、学術用語として提案されたものであることは、すでに各所で指摘されている。
「積極的平和は1942年、米国の法学者クインシー・ライトが消極的平和とセットで唱えたのが最初とされる。その後、ノルウェーの平和学者ヨハン・ガルトゥ ングは消極的平和を「戦争のない状態」、積極的平和を戦争がないだけではなく「貧困、差別など社会的構造から発生する暴力がない状態」と定義した。」(神奈川新聞2014130日、坪井主税・札幌学院大名誉教授の発言引用。参照URL : news.kanaloco.jp/localnews/article/1401300008/
つまり、「積極的平和」とは、戦闘による「主体的」な暴力だけではなく、上記のガルトゥングによって「構造的暴力」とよばれる主体が特定できない暴力をふくむ、あらゆる暴力から解放された状態のことであり、これによって獲得される安寧をしめすものである。「〜主義」が「〜」を原則とし、その意味で「〜」の理想を念頭におくことをかんがえれば、「積極的平和主義」の意味とは、いまのべた意味での平和を希求することを原則としたかんがえや姿勢であるはずである。しかしながら、この用語をいたるところで連呼しながら、安倍は、集団的自衛権の行使容認に意欲をしめし、武器輸出三原則について、撤廃をふくめたみなおしに着手し、靖国神社を公式参拝し、「構造的暴力」の最たるものである原発の再稼働をすすめようとしている。
この意味で、安倍は二重に、そしておそらく意図的に「積極的平和主義」の意味を歪曲し、自分の「主義」について、あやまった認識を国民にあたえようとしている、あたえてしまっているとしかいいようがない。安倍の「積極的平和主義」は「平和主義」ではない。安倍はなにをいってもよいが、上記の言動をみるかぎり、「平和主義」の語をつかうのは矛盾である。ぼくは、かりに自分が安倍の言動のすべてに賛成するものであったとしても、安倍がそれを「平和主義」とよぶことには反対するだろう。そのぐらいまちがっているし、まちがっていると指摘しなければならない。
第一に、安倍は平和学で提唱される学術用語を不当に「援用」し、その意味を歪曲している。安倍はガルトゥングをしっており、日本語ではこれを「積極的平和主義」といいながら、英語では別の用語におきかえていることもすでに指摘されているとおりである。まごびき(再引用)になるが、以下は、東京新聞の記述を安井裕司がまとめたものをである。
「安倍政権の勉強不足かと思いきや、20131019日付けの東京新聞では、安倍政権はガルトゥング氏らの「積極的平和」=Positive Peace論を(知っているのか、知らないのか)敢えて海外ではPositive Peaceという言葉を避けていることを指摘しています。
記事では、安倍首相が米国の保守系シンクタンク・ハドソン研究所で先月行ったスピーチにおいて、「積極的平和主義」をProactive Contributor  to Peaceと言っており、和訳すれば「率先して平和に貢献する存在」となり、前出の坪井教授は、Proactiveでは軍事用語では「積極的平和」=Positive Peaceの意味ではなく、『先制攻撃』のニュアンスで受け取られるとしています。しかし、そのスピーチも首相官邸のホームページ上では「積極的平和主義」と訳されており、坪井教授は「言葉のマジック」と言われています(東京新聞、20131019日)」
(安井裕司ブログ『グローバル化は足元からやってくる~国際学で切り取る世界と社会~』:http://www.quon.asia/yomimono/business/global/2014/01/15/4562.php#pageHeaderArea
安井はおなじブログ記事で、「学問上、新たな平和学の定義を構築しても問題ないのですが、その際は、ガルトゥング説を踏まえて論じていくべき」であるとただしくのべているが、英訳を改変するということは、確信犯的におなじ用語を別の意味で使用している(そうでなければ不勉強もはなはだしい)といえるものであり、誠実な言論にたいする姿勢とはいいがたい。
では、なぜ安倍はこのような姑息な手段にうったえてまで、「積極的平和主義」にうったえたのか。これは「平和主義」を歪曲することにくわえて、「積極的」の語がもつ多義性にうったえて、「よい意味のことば」をねつ造しようとしているからにほかならない。これが安倍による第二の歪曲である。そうでなければ、この誤用を、安倍の極端に不十分な日本語能力によるものと判断するしかない(そのほうがまだましであることはいうまでもなく、「まちがえました、「積極的暴力主義」でした」と訂正すれば、安倍のかんがえがクリアになり、すくなくともよくわかることをいっていることにはなる)。
「積極的」というのはpositiveの訳語としておそらく明治期につくられたもので、『広辞苑』(第五版)の「積極」の項にはつぎのようにある。
「対象に対して進んで働きかけること。静に対して動、陰に対して陽、その他肯定・進取・能動などの意を表す語。」
「平和」が主として「静」のイメージをもつ語であることをかんがえると「積極」にある「動」のイメージとの矛盾があるような印象がもたれるだろう。しかし、そのことによって、「積極」によってしめされる具体的な行動が、「平和」の意味に矛盾するものであってよいということではない。ガルトゥングにしたがえば、ただ戦争がないというだけでは、平和は消極的なものでしかなく、貧困・差別などをなくすような「積極的」なアクションをおこしていかなければならないというのが、ここでいわれる「積極」の意味である。つまり、「平和」のもつ「静」のイメージにひっぱられることなく、「積極的」にそれを希求してゆかなかければならないということ。これにたいして「安倍」の意味する「積極」とは、「平和」との語義矛盾を辞さない「動」としての「積極」で、「平和を維持するために、軍事力を増強する」と解釈できる。これはたしかに、「積極=動」「消極=静」のイメージに合致する、なにもしないでいるのは消極的平和主義、平和を維持するために軍備を増強するのが積極的平和主義という図式である。また、「積極」は「ポジティブ」なので、「よい意味」でつかわれることがおおい語でもある。「積極性のあるひと」はよいひとだし、「積極的に発言する」のは議論にとって有効である。したがって「平和主義」にかかる語としての「積極的」がわるい意味のはずがないと「積極的平和主義」は予想させる。しかし、そこにガルトゥング的な意味ではない、別のものをしのびこませたのが安倍流の「積極的平和主義」であり、坪井主税が「言葉のマジック」というものであることに、ぼくたちはどうしても気づかなければならない。「どろぼうや暴漢がいないからと平和をかんじているだけではいけません。いざというときにそなえて、各家庭に銃を1丁そなえるようにしましょう。愛するうつくしい家族のために」というのが安倍流の「積極的平和主義」、「どろぼうや暴漢がいないからというだけで平和だとおもうだけでなく、どろぼうや暴漢になろうとするひとがうまれないような、貧困や差別のない社会をつくっていくために具体的に行動してゆきましょう」というのがガルトゥング流の積極的平和主義。どちらが「平和主義」の名にふさわしいかは、議論するまでもないことである。
ところで、理想と現実が天秤にかけられ、理想はそうかもしれないが、現実にはこうなのだから、それに即してこうするしかないではないか、というものいいのパターンがある。原発を将来的にゼロにするために再稼働します、平和のために軍備を増強します、といったものがそれにあたる。そして、政治家はそれがとても得意である。「積極的平和主義」でも、ぼくの以上のような議論について、冒頭にしめしたウィキのような「平和観」で応酬されるであろうことはめにみえている。武力を前提にしない平和は、いまや想定できないものであるというものいいである。最初にもかいたように、いまのぼくには、このことについて十分な議論をする用意はない。しかし、もしそうであったとしても、だからといって「平和主義」の語のなかの「平和」にそのような「現実的」な意味をあててはいけない。何度ものべてきたように「主義」とは理想をかかげるものである。安倍がいおうとするようなことで「平和主義」をかかげているようでは、そもそも平和についての意識のスケールがちいさすぎるし、すでにのべてきたような誤解をあたえ、それが「平和」なのだと「平和」そのものの意味がすりかえられてしまう。いったい安倍は、こどもたちが「平和っていうのは、戦争と戦争のあいだの時期のことだよ」と理解してしまうかもしれないことに何の抵抗も感じないのか。正直に(現状にもとづいた)「積極的暴力主義」というか、かんがえをあらためるか、ぼくは後者のほうがいいけれど、即刻検討していただきたい。ひとをだましたり、ごまかしたりしてはいけない、おもっていることがどんなことでもいいから、せめてきちんとしたことばでのべてほしい。そうでなければ、まともな議論さえできない。そしてそんなことを国家のトップになぜいってきかせなければならないのか。