※この映画は、日本のある映画祭で昨年『ピクニック』というタイトルで上映されました。配給がきまってこの秋に正式に上映されるようですが、そちらのタイトルがいまのところわかっていません。上記は中国語原題と英語のタイトルを併記しました。
映画的なきまりや約束ごとを解体する、というこころみはいままでいろいろあったとおもう。たくさん映画をみたわけではないけれど、ああ、そういうことをしているのだなという映画はいくつもみたことがある気がする。
だけど、この映画では、そういう映画的なきまりや約束ごとが解体されているのではなく、そういうすべてのものから「解放」されているのだとおもった。
かれのどの映画をみても、そこには、映像に意味があたえられ、それがものがたりになるプロセスが、かれだけのもつかたりくちとしてしぼりだされている。ぼくたちは、はじめ、そのあまりにもながいカット、そしてそのなかでの「なにもおこらなさ」のようなものに、もちろんとまどう。しかし、とまどっているうちに、同時にすこしずつ、その独特の時間のながれ、映像の進行の話法のようなもの、画面のなかにふうじこめられる、あるいは画面から解放される空間が、こちらのからだにもしみこんくるのをかんじることができる。「映画的な時間」ではなく、「ツァイ・ミンリャンの映画の時間」のなかでひろがる空間が、そこでもっていた緊張感そのものが、じわりじわりとからだに浸透するかんじ。この「浸透」のかんじは、この映画でも、ツァイ・ミンリャンのほかの映画同様に、随所で「みず」が重要な要素としてかかわることと無関係ではないともおもう。
そのためにかれがなにをどうしているのかは、いまちょっとおもいついてかいた、みずの効果ということ以外はよくわからない。いや、わかるのだけれど、それをどうしてもかけない、しかし、そういうものがかれの映画のなかにはあるのだ。そして、この作品は、まちがいなく、そのひとつの頂点になったもの(これがかれの最後の長編映画になるそうです)。
ひとつだけ具体的なこと。終盤のシーンで、ふたりの人物のむねうえぐらいのアップの映像で、カメラは完全に固定の、ながまわしで、たぶん15分とか(もっとだったかも)そのぐらいのカットがある。そのあいだ、登場人物のひとりは、あるものに目をうばわれているのだが、そのながい時間のあいだに、彼女のきもちが変化し、感情がたかぶり、そしてある瞬間にいよいよ彼女の目からなみだがながれはじめる。そしてひとしきりのなみだがながれおわっても、カメラは依然としてそのまま、そしてそのうちに、彼女のなみだはかわき、ほほにそのあとがのこる。そして…というところまでを、ようするにぼくたちは、その映画の撮影とまったくおなじ時間のながれのなかで体験することになる。せりふも、音楽もなく、人物もほとんどうごかない(すごくない?それで「みせられる」のだから)。ときおり、背景のくらやみを電車が通過する、それが何度も通過することによって、ぼくたちは、あ、またつぎの電車がきたと、時間がながれていることをなんとか感得することができる。こんなおもいを、ぼくたちはたとえば日常でなにかをまっているときなどに体験することはあるが、映画のなかでは、普通ならそんな「ひま」はないはずだ。
また、このようなカットがとれるとは、このような要求を演技者がみたしているということでもある。この超ながまわしのなかで、感情をたかぶらせ、なみだをながし、かれるまでの時間をぼくたち観客に共有させてくれるのは、ツァイ・ミンリャン映画ではおなじみのチェン・シアンチーだが、これに相当する、ながいカットのなかでの、せりふによらない感情のものがたりは、主演のリー・カンションによっても随所でみごとに演じられており、むしろいま紹介したカットは、その変奏、もしくはクライマックスといってもよいかもしれない。
リー・カンションの演技としては、「キャベツ」をめぐる壮絶なシーンがある。でもこれをかたることは、この映画をこれからみるひとにはあまりにももったいないので、この映画が日本でも公開されてから、この映画についてもっとかけそうだとおもったらかくことにする。
緊張感、リアリズム、といったどんなことばも、そこではものたりなすぎてつかえない、そんな時間と空間を、それでもこころがどろどろになるぐらいのうつくしさでえがきだす映画作家、それがツァイ・ミンリャン。映画というものにもともとなにかきまりや約束があり、それをふりだしにもどしているのです、というてらいのようなものは一切かんじられない。そんなものは自分にはもともと関係なかった、わたしがあなたにとどけたいものが、このようなかたちをしているだけなのことなのです、といっているようだ。
ツァイ・ミンリャンの映画をみていると、ぼくはときどき、しばし目をとじていたいとおもうことがある。
まえにもかいたけれど
、目をとじて、またあけても、ぼくたちは映画においてきぼりにされることはない。ほんとうの生のなかで、ぼくたちがまどろむときとおなじように、もちろん、そのあいだみえるはずだったものをみのがしたにもかかわらず、ぼくたちは、それでもその映画のながれをのりすごしてしまうことも、そこにのりおくれてしまうこともない。そんな時間と空間を映画館のなかにつくりだすことができる作家である。かならず映画館でみてほしい。
そして、この映画をみおわったあとに、ぼくたちは、映画館をでて、現実の時間のながれにもどるわけだが、そこでぼくたちは逆に、自分が、映画などよりよっぽどきゅうくつな時間と空間のきまりや約束ごとのなかにいることに気づかされることになる。いったい「いきている」とはどういうことか、意味をつみあげて、なにかものがたりをつくりあげながら「人生の意味」をみいだすぼくたちのなかにながれる時間は、ぼくたちのからだのなかをながれる血や心臓の鼓動から、もうずいぶんとおいところにいってしまっている。ぼくたちのめのまえにあらわれたもの(いろいろなものすべて、ことば、映像、風景、おと、表情、うごきなど、それをとおしてぼくたちがなにかをよみとるすべてのものごと)から、なにかをよみとるための、ほんとうはとてもながいプロセスが、のこらずとても短縮されて、とてもみじかい解釈のプロセス、バーコードをよみとるように、ぼくたちはめのまえをすぎゆくもの、みみをろうするいろいろなおとの情報をみぎからひだりへと処理してゆく。そして、処理できないものに、あれ、と注意をむけるのではなく、そういうものを、ただ無視しつづけている、そんなことに気づく。「デジタル」の、きっとほんとうの意味、ぼくたちが獲得したもの、ぼくたちが喪失したもの。何千万画素になってもうつらないもの、みえないもの。
この作品は、だから、最初にかいたように、単に映画的なきまりや約束ごとからの解放だけではなく、ぼくたちが、自分でとじこもってしまった意味やものがたりの牢獄から、ぼくたちを解放するほどのちからさえもったものだ。ひとのこころのさびしさ、喪失のくるしみ、いきる意味、ながれ、そう、「なになにの」がつかない、主語を必要としない「ながれ」の感触・感覚、そんなものが、よいしれるようなうつくしい映像(そしてひかり)と、するどく、やさしい音声の効果のなかに、強烈に、鮮烈に、そして沈静に、寡黙にえがきだされた映画。こやくもふくめて、すべての人物の演技の珠玉。
電車のなかで、スマートフォンをみるのをやめて、もういちど、まどのそとの風景にめをやってください。できあいの意味はそこには全然ないけれど、とおくにあるものにちかづいて、意味をあたえ、ものがたりをつくる、というなつかしく、あたらしいそのいとなみを、もういちど再開できるかもしれない。いつからか「妄想」と揶揄するようにいわれるようになった、ぼくたちの想像力をきっととりかえすこと。いまからでもまにあうとおもう。こんなすばらしい映画が21世紀がはじまってもう10年以上たったいまでも可能であるのだから。
だれかの表情がゆれはじめ、なみだがこぼれ、さめざめとした時間のあと、それがかわき、かなしいめにふちどられた表情だけがのこるまでの時間、そのだれかのかおを至近距離でみつめつづけたことがありますか。それができるだけでも、こんな極上の映像体験はないとおもう。そしてみおわったら、すきなもの、あいするもののちかくにいって、おなじように、きっととてもながい時間そのかたわらで、それをみつめてみてほしい。ひとでも、ものでも、動物でもいい、ああもちろん、想像上のものでもいい。いきていることの意味とか、ものがたりは、そういうところからしかはじまらない。そのことをどうしてもおもいだしてほしい、おもいだせる。
ぼくのブログはこれらをよむまえにかいたので、ああそういうことなら、とかきなおしたくなったところもあるけれど、このままにしたいとおもいます。
“Walker”という短編が、いまyoutubeで閲覧できますが、おそらくこれをヨーロッパにもっていって展開したものではないかとおもいます。主演はこれもまたリー・カンション、そして共演が、フランス映画・演劇界の鬼才、ドニ・ラバンです。
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