ひさびさに映画館でみたフランス映画の封切り作品。監督は新進気鋭、制作時28歳のレア・フェネールの劇場第一作。
最近の洋画は、英語のものはタイトルが翻訳されず、そのままカナ表記という場合が多く、『未知との遭遇』のような「名訳」にお目にかかることもなくなったが、フランス映画については、そうはいかないので、こうして「邦題」がもうけられることが多い(英語圏で上映された作品なら、その英語タイトルがカナでもってこられることもある)。『勝手にしやがれ』『大人は判ってくれない』『突然炎のごとく』など、ヌーベル・バーグ期などはとくに、原題には無関係なのに、いいかんじの邦題もかつては多かったが、このところ、自分がフランス語がわかるようになったせいもあるのだろうが、この「邦題」にげっそりさせられることも多い。この作品の原題はQu’un seul tienne et les
autres suivrontというながいもので、試訳すれば「だれかひとりだけでもがんばれば、ほかのひとはついてくるよ」というもので、まさかこれをそのまま邦題にしろとは言わないまでも、とはおもう。「愛について、ある土曜日の面会室」は、この映画の場面設定と、底にながれるテーマを一緒にした、ある意味で(みたひとには)わかりやすいものだが、そのままいってしまうなよ、とくに「愛について」としてしまってはみもふたも、という感想をそれでももってしまう。「底にながれるテーマ」と明言できるのは、ユーチューブでみつけたインタビューで、フェネール自身がはっきりそういっていたからである。この作品のシナリオはすばらしいし、その発言も本人がいう以上そのとおりというしかないが、これをタイトルにいれてしまうというのはまた別の問題である。これが、もうすこし評価のさだまった中堅以上の監督の作品なら『面会室』で十分だった気がするし、そのほうが映画のタイトルらしい。もしかすると『面会室』とう邦題の映画がすでに存在するのか、とおもって「映画 面会室」で検索したら、ほぼ全部、この作品『愛について…』についてのページで、インターネットおそるべしとおもった。この検索については、実はもっとおもしろいことも発見したのだが、これ以上タイトルのことではなしをひっぱるわけにはいかないので割愛する。
映画のストーリーその他については(あとでわりときちんとかくけれど)、以下の公式サイトをどうかご一覧いただきたい。
http://www.bitters.co.jp/ainituite/
そんなにたくさんの映画をみたわけではないが、とても独創的なストーリー。3つの、おたがいに無関係なひとたちが、それぞれ、それぞれの理由である土曜日のおなじ日に,刑務所の面会室でとなりあわせる。息子を殺された理由をしるために、犯人に面会しようとするアルジェリアの中年女性、暴力沙汰で逮捕された恋人にあおうとするが、未成年であるために単独での面会がかなわず、偶然しりあった研修医にたのんで奇妙な「三者面会」をおこなう少女、しごとも夫婦仲もうまくいかないさえない男が、あるきっかけで、自分にうりふたつの服役囚もなりかわるという「しごと」を遂行すべく面会室にむかう。3つの状況はあまりにもちがうのに、そこには、そう「愛」というおなじひとつのテーマがながれている、というのが、この作品の最大のネタバレということになる。
28歳のわかさで、監督フェネールが、なぜここまで複雑な状況の、しかも性も世代も国籍さえことなる人物のこころのひだに手のとどいたシナリオをかき、演出ができてしまったのか。彼女がかよっていた高校は刑務所に隣接しており、日々の通学時に、塀のこちらがわでさまざまな人たちをみてきたという。しかしそんなことはきっかけにすぎないはずで、これはやはり、フェネールのとぎすまされた感性のたまものというしかない。なにがそんなにすごいのか。「愛」についての映画だからである。
このようにいうと、ぼくなどは自分で鼻白んでしまう。そして「愛についての映画」なんて、ホラーとSF以外はほとんどそうじゃない、といわれてしまいかねない。いや、ホラーだってSFだって、しばしば数々の災難のあとで、抱擁する男女のシルエットでおわる作品は既視感枚挙にいとまがない。ちがう、ぼくは「愛」とかわからない、とつねづねおもってきたのだ。すぐにみんな「愛」「愛」というが、いったいみんなはなにをそれとわかってそうよんでいるのだ、適当にいっているだけではないのかとおもってきたほうである。だから自分でもこのことばはふだんほとんどつかえない。
loveやamourは、きっと英語圏、フランス語圏で、日本語の「愛」とはちがう地位をもっているはずだ。そうでないとあれほど頻繁にくちにできるわけがない。英語にはそれでも動詞のloveについてはlikeとのすみわけがあって、ほんとに大事なときにloveは一応とってあることになっているが、amourは動詞ではaimerとなり(例の「ジュテーム je t’aime」の)フランス語にはlike に対応する動詞がないものだから、なんでもこれである。ぼくたちは、恋人を「愛」し、肉親を「愛」するのとおなじように、(すくなくとも言語上は)、牛肉を「愛」したり、大統領を「愛」したり、その他なんでも「愛」せる。そしてもちろん、そんなことより、loveやamourには、宗教のバックアップもある。これについてはくわしくかく資格がないが、loveやamour は、いってしまえば人間性の基本みたいにおもうのが普通なのだとおもう。
これにたいして「愛」はそうはいかない。「愛する」というのはそもそも日常語ではない。音読み漢字+スルという形式は、そもそもかたい表現である。「欲する」「浴する」「絶する」「反する」「供する」「益する」など、どちらかというと法律の条文とかでつかわれるようなことばと同じ語形成形式のこの「愛する」が、なぜここまで普及したのか。調査したわけではないが、おそらく歌謡曲とドラマのせいではないかとおもう。演歌ではなく歌謡曲。つまり、これも調査したわけではないが、「愛」は、きっと20世紀後半に、急激に日本語共同体の中に普及、あるいは蔓延した、といえるような調査をしてみたい。
映画のはなしからどんどんとおざかっているのかというと、そんなことはない。いま、loveやamourと「愛」はちがうとかいたけれど、それでも、このことばは「よい」意味のことばなので、なにかをいい意味でとらえようとするときに、すぐにつかいたくなることばではあるはずだ。恋人との関係に、なにかいいなまえをつけたい。なまえをつけることで安心したい。「愛する」というかたいことばがもつ「おもおもしさ」は、そんなときにきっとloveやamour以上に功を奏したのではないだろうか。歌謡曲でおもいつめたかおで「愛しています」とうたいあげる美男美女の歌手。ドラマのなかで、ここでこういうしかないだろう、というタイミングで「愛してるよ」といいやがる美しい俳優・女優たち。もちろん作詞家、脚本家的には、これは洋楽ポップスやハリウッド映画でくりかえされたloveの「翻訳」だったのかもしれない。ともかくも、「愛」はそれできっと大ヒットしたのだ。「『好き』ではなく『愛している』といって」ということで、きもちが「格あげ」される。そもそも感情の分化はなづけられなければそこまできっちり区別されるものではない(発達心理学未習)だから、「愛」となづけてもらえる、このすこしおもおもしい、そしてloveのかおりがちょっとするこのことばは、すくなくともとてもうれしいことばであるはずである。
しかし、「愛」において典型的に、そしてloveやamourでもきっと同様におこったことは、その「濫用」だったのではないか。なまえをつけて安心することを、ぼくたちは毎日くりかえしている。なまえのないものをぼくたちは不安におもう。それでいつのまにか、きがるにそういってしまう。「ぼくはきみを愛している」
どういうことか説明しなさい、それは歌の歌詞できいたことがあるだけでしょう。それがどういうきもちなのか、きみはわかっているのか。ぼくはわからないよ。だからわかったふりはしない。だからつかわない。「愛してる」とか鼻白むわ。いやまあまあ、そんなめくじらをたてないで、いいじゃない、結構なことなんだからみんなが「愛」「愛」って口にすると、なんだかしあわせな雰囲気がただようじゃないですか。なるほど、それであれだね、「国を愛する心」とかいうのだね。「国を愛する」ってなに?そんなむずかしいことを、いったいだれができるのですか。ぼくは恋人をきっと愛している、それは、それでもなんとなくわかる。うーむ、たとえば、ぼくは彼女が車にひかれそうになったら、身を挺してもたすけようとするだろう、いや、それは恋人だからするのだろうか、そのへんのこどもでもしてしまうかもしれない、そうするとこれは「愛」じゃないのか、まあいい、それはわかるんだ。でも「国」ってなによ。土地のこと?ここにすむひとのこと?政治体制?土地っていってもね、全部しってるわけじゃないし、すくなくとも、土地を「身を挺してまもる」っていうのはよくわからない?あ、わかった、戦争にいくということだね、オクニのために。なるほどそういうこと。それだけじゃない、ここにすむひとにたいしてという意味でも「国を愛する」ということなの?あったことがないひとがおおすぎる、なんせ1億人以上もいるのだから。しりあいになったひとのことはたしかに大切にしたい、でもそれって何人いるだろう。全然かぞえられないけど、きっとせいぜい5000人ぐらいだろうか。全然たりないよね。それにぼくはそもそも外国にもしりあいや友人がいるんだ。そのひとをおいて、しらないひとを「愛する」なんでむずかしすぎる。政治体制についてはもうこれはお話にもならないけど、まあでも「日本国憲法の精神を愛する」とかはちょっといえるかも。ただ、そのときの「愛する」は体制=制度としての憲法ではなく、そこからあぶりだされる、ひとのこころのもちようのようなものだから、それもだいぶちがうな。恋人とは。
はなしをもどそう。「愛する」というのは、とりあえずなまみのひとにかぎるものとかんがえることにしよう。「恋人」「配偶者」「親」「こども」を、きっとぼくたちは「愛している」。でも、そのことばじゃなくてもいいかもしれない。そしてそのことばにまとめられるものでなくてもいいかもしれない。それにぼくの「愛する」とほかのひとの「愛する」がおなじかどうかをたしかめようもない。それなのに「母性愛」「親子の愛」と、既成事実のようにいわれるのはこまる。こまるのにみんないう。そこに、当然あるものとして「愛」がかたられる。
それでだいじょうぶなんですか?というのが、ようやくきちんともどってきたけれど、この映画『愛について、ある土曜日の面会室』のテーマである、フェネールはそこまでいわずに、ふつうにamourということばをつかっていたようにおもうけれど、監督のなかにあるものは、監督自身のインタビューのことばより、作品そのもののほうがそれを雄弁にかたるものであることはいうまでもない。だからぼくはインタビューのフェネールのことばをそのままのみこむ義務はないし、そもそもインタビューなんて、ねられたことばでいえるものでもなく、それに映画は商品でもあるから、そこでのことばは、そういう意味ももつのだとうことをさしひいてかんがえないと。タイトルもおなじ。いまさらいうまでもなく、タイトルというのは、映画のなかのもっとも「商品」的な部分だから、それで「愛について」などとかるがるしくくちばしってしまう。それがタイトルなのだ。
「愛」を、amourを、ぼくたちは、ここまでかいてきたようなしかたで、じつはすごく適当なしかたでつかってきたのではないかとおもう。安心するために、そこにはじめからあったもののようにおもえるように。でも、それは、「平時」、なにもおこらないときにしか安心の根拠にはならない。「愛」には「危機」がつきもの。「愛の危機」全文一致検索で、24,800,000件が0.14秒でヒットするぐらい、そうなのである。恋人のようすがおかしい。こどもがなきやまなくてうんざり。それでもぼくたちは「愛」を基本的に信じようとする。わたしには「母性愛」があるはずだ、「ぼくと彼女とは永遠の愛でむすばれているはずだ」云々。それでも「愛」はこわれる。もともとかたちなどないものだから。恋人たちはわかれ、こどもを虐待するおやがいる。恋人をころしてしまうことだって、三面記事としてはちっともめずらしいことではない。そして、この映画の3つの面会のなかのひとつは、まさに恋人につめたくされておもいあまってころしてしまった男に、ころされた男の母親があいにくるというエピソード。
この映画の中には、重要なやくわりを演じる何人かの「わきやく」が存在する。そのひとりは、いまかいたばかりの、恋人をころして服役中のおとこの実姉セリーヌ。マルセイユ市街の不動産業者で、みたところなんの不自由のない生活をおくっている。不自由のない生活。(でてこないけど)夫と、ふたりのまだちいさい、無邪気なこどもたちにかこまれた、つまり「愛」にみちた生活。おとうとはむかしから気のよわい、こころのやさしい子だった。もちろんおとうとのことも愛している。そのおとうとが、突然ひとをころした。
そのおとこにむすこをころされた母親ゾラは、犯人になんとかしてあいたい一心で、セリーヌのつとめるオフィスをつきとめ、みもとをかくしたまま、彼女と接触することに成功する。そして、偶然のはなしのながれで、彼女のこどもたちのベビーシッターとして、いえにでいりするようになる。そんなある日、セリーヌは、ゾラにうちあける。きちんとセリフをおぼえていないのだけれど、おとうとのことがあってから、「愛」というものがわからなくなった、自分が当然もっているはずの愛、たとえばあのこどもたちにたいする愛とか、そういうものがどういうものなのか、わからなくなりそう、というようなせりふ。
ぼくが冒頭からかこうとしていたことが、このシーンのこのせりふに集約されている。ぼくたちのまわりのいろいろなものには、ほんとうはなまえがない。なまえがないということは、そもそもそれが「なにか」としてとりだされているわけでもない。でも、なまえがあることで、ぼくたちはなんだかそれがはじめから当然のようにそこにあるものだとおもっていきている。でも、それは、ほんとうに存在することもあるけれど、なまえをつけて安心していただけで、あけてみると(なまえをとりさってみると、あるいはなまえがなまえにすぎないことに気づいてみると)、その存在が、ただなんとなく、人間の社会のなかであることにしてある約束のようなものにすぎないのではないかという不安に、簡単におそわれてしまう。なにもないのだ、「愛」などないのだ、といっているのではない。でも「愛」は、はじめからそこにあるものではなく、じつはひとりひとりが経験のなかで、「いきる」ことのなかでだいじにあたためて、そだててゆくようなものかもしれないということ。そのことをわすれると、世界は空洞ばかりの、かきわりの風景のようになってしまうことに、ぼくたちはどうしても気づくことができない。それが破綻するまでは、ということ。
破綻。きびしいことばだけれど、ぼくたちはちいさな破綻を日々経験している。しごとの失敗、人間関係のもつれ、さまざまなかたちでの大切な人の喪失。予想していなかった妊娠、嫉妬、にくしみ、絶望、いまかいたすべてのこと、そしてこうしてなまえをつけられないもっとさまざまなことが、この映画のなかにでてくる。そのひとつひとつに、フェネールはとてもていねいなことばをあたえ、映像としてかたちをあたえ、ぼくたちに、たしかに、きっと「愛」についてかんがえるようにしむけるのだ。そしてそのとき、ぼくたちがなれきっていた「愛」ということばのことばとしての希薄さを、ぼくたちはおもいしることになる。歌謡曲やドラマで鼻白みながらも、かるがるしくつかっていたことば「愛は地球を救う」「愛さえあれば」「愛のなんちゃら」「愛」「愛」「愛」。そのすべてが、どのひとつもそれではない、きみはなんでもないものにそのなまえをつけて安心しているけれど、いちどぎりぎりのおもいをしてみなさい、そうすれば、きみのなかで、そのことばは、いや、そのことばじゃなくてもいいんだ、きみがそんなに鼻白むなら、そんなことばでなくてもいい、その、それが、別の意味をもちはじめるかもしれない。「いきている」ことをつよく意識したことがある?自分が自分でうごいていきているのだということを、きちんとかんじたことがある?そこの、きみのとなりにいるひとに、きみはいまなにをおもっているの?すぐに「すきなひと」とかそういうこともいってほしくないな。簡単すぎるよそれは。いきてることって、ほんとはもっとややこしいことだって、きみはしっているでしょう。ややこしいことを、もっとそのややこしさのままひきうけないと、だからいったん、「愛」っていうの「愛してる」っていうのやめてみれば、たしかなものがあるかわからないけれど、あるとしたら、そういうところからこそみえてくるものかもしれない。
ところで、獄中の囚人と面会時にいれかわる、というのは、フェネールのインタビューによると、実際にこころみられることであるらしい。フランスの面会室は、日本の(しらないけど、それこそドラマとかでみる)とはちがって、アクリルであいてとしきられているのではなく、机をはさんでからだをふれあったりすることができるらしい。だから不可能なことではない。ステファンは、とにかく人生がうまくいっていない、いきていることのすみずみまでが破綻している。バイク便のしごとには集中できず、収入も不十分で、同居の母親から借金だらけ、しかもその母親とも妻とも不仲で、妻はよなよなであるいてはほかのおとこに売春まがいのことをしているようす。そんなときに、その妻が暴漢におそわれ、ピエールという町のやくざピエールにたすけられるのだが、そのピエールがステファンをみて、驚愕し、きみは、獄中にいる友人にうりふたつだ、かれは25年の懲役で服役しているがかれになりかわってほしい。そのための十分すぎる謝礼をだそう、きみが、脱獄した友人の安全が確保された時点で真実をうちあければいい。1年ぐらいの刑ですむだろう、という依頼をうけ、ちゅうちょのすえ、承諾する。こんなことを承諾できてしまうほど、ひとは困窮するのだろうか。ステファンは、なぜ承諾したのか。かねのため?妻のため?自分のため?このあたりのことは、正直にいってぼくにはまだ未解決。ただ、一種のスペクタクルとして、いちばん「みせる」のは、3つのエピソードのなかでもこれなので、このことについては、もうちょっとかんがえてみないといけない。なにをしてもうまくいかない、なんでもない、なんにもなりえない自分に「なまえ」をつけるために、「他人」となりかわることをうけるという逆説を、かれはうけいれたということか。かれをののしり、なじる妻を、ステファンはなんどもだきしめようとする。でも妻の態度はかわらない。これも「愛」となまえをつけて安心していたものの「空洞」ということなのか。それを、「なりかわり」によってかれは復元することができるのだろうか。おまえのような人間の1年がどれだけのものなんだ、というようなことばを、ピエールはあるときステファンにあびせる。がらんどうの「生」に、なかみをつくること、そしてそのためにすることが、他人になりかわること?それがそう?そこまで?
高校生のロールは、サッカーにうちこみ、母親にはそんなあぶないスポーツはやめなさいといわれながらも、クラブの友人たちとそれなりにたのしい日々をおくっている。そんなとき、通学のバスで、けんかでもしたばかりなのかひたいから血をしたたらせながら破天荒なふるまいをするアレクサンドルという若者に、なぜか気をひかれ、つきあうようになるが、ひょんなことからアレクサンドルは暴力事件をおこして刑務所に服役するようになる。「投獄された恋人」をもつ身となったロールは、彼と面会するために、たまたましりあったシニカルな研修医アントワーヌに同行をもとめてアレクサンドルとの面会を、アントワーヌ同席のもとに実現し、3人の、奇妙な関係が面会室で展開することになる。そのうち、ロールの妊娠が発覚し、それをつげにアントワーヌとともに面会にいくが、突然ロールは面会を拒否し、彼女を廊下にまたせたまま、アントワーヌひとりがアレクサンドルともっと奇妙な面会をする。このエピソードでは、先のセリーヌのケースとはちがって、そこには、なまえがついたものがなにもない、アントワーヌは終始超然とした態度をくずさず、アレクサンドルは、アントワーヌが同席しているのにもかまわずロールとの「愛」をたしかめようとしつづける。そして、結局ロールはアレクサンドルからはなれる。たしかなことは、ロールが妊娠したということ。「愛の結実」?とんでもない、では、そこにはなにもないのか、あるのか、なにがあるのかを、ぼくたちはとわれることになる。
むすこをころされたゾラは、犯人、つまりセリーヌのおとうとフランソワとの面会をはたす。ゾラはゆっくりと、自分のこどものなまえの由来をあかし、それによって自分の正体をあかす。フランソワは動揺しつつも、眼前の、自分がころした恋人の母親にむかって、自分がなぜ殺人をおかしたかをかたる。母親はきびしい視線でフランソワをみつめ、彼はその視線にたえることができずとりみだす(そしてこの動揺に乗じてステファンは獄中の男とのいちど失敗した「なりかわり」に成功する)。ここでは、ふたつの「愛」が破綻している。フランソワは恋人を、ゾラは息子をそれによってうしなう。両者のあいだには当然のことながらいかなる「連帯感」がうまれるわけもないが、それでもふたりは、ともにもっとも愛するものをなくしたという経験が共有されている。そこでは、いったい何が喪失されたのか。それが「愛」だとしたら、いったいそれはなにものなのか。
雑ぱくになってしまったが、この映画のものがたりをすこし忠実にたどってみた。
「愛」「愛している」ということばを、ぼくはますますかるがるしくつかえなくなった。そんなものがあるのか、というきもちもそのままだ。ちがうのは、それでも、フェネールをしてここまで「愛」をといかけさせるものがあるのだという、そのなにかについての確信である。不安をおそれずに、「愛」をいったんすててみよう。そして、それでもぼくたちはだれかとなんらかの関係をもてるのだということ、その関係がどういうものでありうるのかということについて、こたえをみつけようとするのではなく、といつづけてみよう。そういうふうにおもうこと。
ほかにもかきたいことはあるけれど(たとえば、「だれかひとりだけでもがんばれば、ほかのひとはついてくる」というこの原題、どうしましょうね。ラップの歌詞だとフェネールはいっていたけれど)、もうすでに(むだなこともかいてしまったので)ながすぎる。よんでくれて、ありがとう。
(画像出典:http://www.critikat.com/Qu-un-seul-tienne-et-les-autres.html)