2012年11月4日日曜日

『終の信託』のナイーブさ


これでまた、尊厳死・安楽死を擁護するディスコースがひとつつむがれてしまった。この映画は、いくつかの批評でいわれているように、公平な視点からとられたものではなく、「パイプをいっぱいつながれて、肉の塊になっていかされる」生を、「はたらくこともできず、医療費ばかりつかってしまう自分がもうしわけない」生を、やはり、はっきりと否定しているという点で、ステレオタイプな尊厳死擁護論をなぞっただけのものでしかない。
「自分の生(死)は自分できめる」というきりふだのようなものいいがある。自分で自分を評価するのだから、自分を「肉の塊」とよび「生きているのがもうしわけない」ということは、それはそれでかまわない、どころか、ある種の「利他」の意思表示であると肯定的に評価される。しかし、そうやってきめられた「自分の生」は「生」一般についての議論と無縁でありうるか。それは無理である。
自分で決めた自分の生は、パイプだらけで生きている人をみて、「おれはああはなりたくない」「あんなふうにして生きていてなにがいいのだ」と思ったうえでの判断ということになる。つまりそれは、自分の生だけではなく、他者の生についてもそのようなものいいが可能になるような土壌を準備することになる。
くるしいけど生きたい人がいるかもしれない、くるしいなら生きたくないといっていても、(映画の中の「悪役」検事がいっていたように)そのときになればわからない。主人公の「患者は、くるしくても、それを意思表示することができない」というせりふは、そのまま「患者は、やっぱり生きたいと思ってもその意思表示をすることができない」といいかえられることで、その根拠をうしなうことになる。
「そんなふうに生きていてもしかたない」生はありえない。だから、ひとは、自分の生だからといって、それについて同じようにいうこともできない。そのようなかんがえをすこしでも肯定する表現活動も、おおいに批判されなければならない。
患者のくるしみは、ではしかたないのか、くるしんでいてもがんばってもらうしかないのか、ということになるというのではない。それをどうするかは医療や社会がこれからずっとずっとかんがえてゆかねばならないこと。注意をはらうべきなのは、『終の信託』のような映画が、商業映画、つまりエンターテイメント作品として多くの人にみられてしまうこと。ことの一面だけをとらえたかたりがかたられつづけることに、くちをさしはさむことができないということ。
周防正行監督に、このようなナイーブな生命観にのっかった商業映画をつくってしまったことについて、そしておそらくはこの作品におよぶ(ことをのぞむ)多くの批判について、ご自分のたちばを、はっきりとしめしてもらいたい。表現の自由があるかぎり、たとえばこのような映画のかたりを阻止しなければならないというのではない。わたしとおなじように、これに異をとなえようとするものが、これにしっかりと対抗するものいいをつむいでゆかなければならないということをあらためて痛感したということ。

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