湯川潮音の新譜『濡れない音符』(2013年11月)リリースにともなうツアーの一環として、大阪の島之内教会で1月25日におこなわれたひさしぶりのコンサートにいってきたので、それをききながらおもったことをかきます。
うたは、おとをことばにし、ことばをおとにするふしぎな時間をうみだす。「楽器がうたう」瞬間をかんじることがあるけれど(後述)、それでも楽器にはなかなかできないものとして、うたには、そこにでてきたおとが、「ことば」となって意味をはこんでゆくそのながれにひとをのせることができる。でも、そのいっぽうで、「ことば」だとおもっていたこえは、うたいてによって縦横無尽にひっぱられたり、かたちをかえたりされることで、ぼくたちが日常「ことば」としてわかったりわからなかったりするものが、ふたたび「おと」や「ひびき」になる瞬間をうみだす。それは、矢野顕子みたいなこえの「名人」のようなひとも、ボブ・ディランとか、チェット・ベイカーのようなひともおなじようにしていることで、ぼくたちが「こえ」にこころをゆさぶられることの要因のひとつに確実になっているはずだ。
たとえば、しろいキャンバスにえのぐをぬりこめ、ぬりかさねてゆき、そして「完成」したものがひとまえにだされる絵画のような芸術ジャンルとちがって(たとえライブ・ペインティングであっても、最後に「できあがった」ものがのこるから)、音楽は、時間のなかにおとをうみだし、そしてそのおとがきえてゆくなかでだけ存在する芸術で、そういう意味では、とても切ない芸術ということになる。おとがうまれ、きえて(しんで)ゆく時間が、音楽をたのしむ時間になるという切なさ。
おとをことばにし、ことばをおとにするうたいてたちは、だから、ほんとうはとても大変なこと、そして大切なことをやっている。うみだし、きえてゆくものをつなぎ、つむぎ、ぼくたちのみみと、そのおくにあるこころに、「うた」をおとしてゆかなければならない。ぼくの友人のうたいては、もうほんとうにながい時間うたいつづけているひとだけれど、「なにをうたえばいいのかわからない、うたうべきなのかどうかもわからない」とつい最近ぼくにうちあけてくれた。完成することのない、時間のなかにだけ存在する「うた」をひとまえでうたってみせるということは、もしかすると、いろいろな芸術表現のなかでも、とりわけきびしいいとなみかもしれないし、はだかにされた自分をひとまえにさらすようないたみをともなうものなのかもしれない。
どんなふうにして、こえをことばに、ことばをおとにすればよいのか、ということをいろいろかんがえたり、感じたりしてでてきたものが「楽曲」で、それを10曲とか、20曲とかもってうたいてはぼくたちのまえにあらわれる。うみおとされる意味をもつおと、意味をうしなうこえの連続に、ぼくたちは、それがすばらしいものであれば、祝祭的な気分につつまれ、たのしい時間がはじまり、そしてすぎてゆく。うたいてと聴衆のあいだに、濃密な時間がうまれ、そしてきえる、というのが、うたもののコンサートでおこっているできごと。でもそうやってうたをたのしめる瞬間を、うたいてと聴衆が共有できるのは、たぶん、ちょっとした奇跡なのかもしれないと、湯川潮音のうたうすがたをみながらおもっていた。
はじめにもちらっとかいたように、うたではないけれど、でもとてもうたにちかいことを楽器でするひとがいる。たとえばセロニアス・モンク。もうずっとまえ、ともだちのいえでモンク(『ソロ・モンク』だったはず)をかけていたら、そこにいたひとが、なんか木訥(ぼくとつ)としたなごむ音楽ですねえというような感想をもらした。ぼくは一瞬ちょっとびっくりした、というのも、ぼくにとって(それまで)モンクのピアノは、ぎりぎりの、とても緊張感のたかいもので、いったいつぎにちゃんとおとがきこえてくるのか、そしてそのおとは、どのぐらいのつよさでどんなふうにみみにおそいかかってくるのか、と、なかばたたかいみたいにきかないといけないとおもっていたようなものだったからだ。
でもそういわれてきいてみたら、モンクのピアノは、たしかにやさしいし、あたたかい、あつい。木訥というのは、全然あたっている。動画などでみていると、ほんとにこのひとはちゃんとピアノをひけるひとなのか、なんでこんな運指で、こんなてのうごきでちゃんとおとがでるのか、というところがある。でもたぶんそのいっぽうで、ぼくのいうぎりぎりの緊張感というのも、きっとはずれてはいない。ジャズのことはよくわからないけれど、モンクをきいていると、「つぎにどのおとをだすのか、どのおとで『メロディ』をつなぐのか」といったことに、ほとんどいのちがけで鍵盤にむかっているようなすさまじさのようなものを、それでもやっぱり感じざるをえないからだ。
でも、きっとそういう「たたかい」のようなことは、ほんとは現代音楽のひとなんかが普通にいつもやっていることで、モンクがすごいのは、それがモダン・ジャズだということ(フリーでさえなく)。ジャズなんだから、グルーブがないといけないし、なによりたのしくないといけない。そして実際、モンクの音楽はたのしいし、めちゃグルービーだし、ソロはなごむ。
島之内教会で湯川潮音の歌唱をたのしみながら、ぼくはふと、このひとは、モンクのようなうたいてだとおもった。モンクの音楽にある(そしてほんとはすべてのまともな音楽にはあるもので、モンク、そして湯川においてぼくがひときわつよく感じることができる)、そのばでうまれて、そしてきえるものとしての、つまり生と死そのものにかたちといろをあたえた、両義的な、切なく、たのしいその感じとおなじものが、湯川のステージにたしかに感じられたような気がするのだ。すこしおおげさかもしれないが、これこそが、「うた」の原初的なすがたなのかもしれない、おとがことばになり、ことばがおとになるというもつれあいの目撃者となること、そしてそこでまのあたりされる生と死のつづらおりによろこび、かつおののくこと。
「生と死」という、すこしおおげさにきこえることばについて説明する。音楽は、時間のなかに存在するのだということはすでにかいたし、あたりまえのことだが、もうすこしほりさげると、あるおとがでて、きえて、つぎのおとがいつごろどんなふうになるのか、そして、そのつぎのおとはまえのおとにくらべてどうなのか、という記憶に依存して、メロディも、リズムも存在する。「記憶」とは、なくなったものをおもいだすこと、おぼえていること。そもそも、ぼくたちが時間の感覚をもつことができるのは、なくなったものをおもいだし、それをいまあるものとつなぎあわせることができるからである。メロディやリズムをかんじるというのは、ぼくたちが、ぼくたちのまえをとおりゆくさまざまな生と直後の死をつなぎとめながら、そのときそのきのいろとかたちをもってながれる時間のうつくしさやきびしさや、こうごうしさや、まがまがしさや、たのしさや、興奮や静謐さや、その他いろいろなものにこころをうたれたり、高揚したり、ないたりわらったりすることである。さまざまな生と死につむがれた、つづらおりの時間のながれを、うたになるおと、おとになるうたに凝縮させたものが、音楽。これは音楽の定義ではないが、音楽がきっともっている大切な部分ということ。
湯川潮音は、「湯川潮音」としてうたいはじめて11年ということだ。そして、最近の数年間、うたえなくなった時間があったとブログかなにかにかいていたのをよんだようにもおもう。そんなことは、ほんとうはおこってあたりまえのことだ。ひとまえで、これがわたしの表現なんですとうたって、そうやってひとをたのしませたり、おののかせたりする、それをそのまま「自分」としてみせつけなければいけないことをくりかえすのがうたいてなのだから、そんな、みをけずるようないとなみを、ずっとつづけられるほうがすごすぎる。その、10年くらいまえに湯川のうたをはじめてきいたとき、ぼくは、そのうたごえや楽曲のすばらしさに驚嘆しながら、このひとには、ぜひきっといつまでもうたいつづけてほしいとはじめからおもっていた。
そしてそれは同時に、そんなことをねがいたくなるぐらい、彼女のうたには、モンクのピアノとおなじような生と死のせめぎあいがあったということだ。だから、前作がでてからのしばらくの時間、ぼくはひそかに気をもんでいた。そしてきくことができた最初の曲が、「かかとを鳴らそ」だった。
「かかとを鳴らそどこかへたどり着いたとき ぼろぼろに疲れて笑っていたい」という最後の歌詞がこころにのこる。やっぱりそうだよねというきもちになる。
そんなわけで、『濡れない音符』は、ほんとうに待望の新作だったし、その内容は、ぼくのその念じるきもちをうらぎらない、すばらしい作品となった。そして、コンサートについては上記のとおり(あまり具体的にかけてないけど)。その余韻をかみしめながら、ぼくはこのところ湯川とモンクばかりきいている。
その日わたしは音楽の中にいたから
あしたともきのうとも手をつなぎながら
ここにいるよと謳われていた
(湯川潮音「その日わたしは」より)